提婆達多
From Wikipedia, the free encyclopedia
名前
デーヴァダッタという名前は、ヤジュニャダッタのように、インドにおいてはごくありふれた名前であった[2]。
人物・来歴
釈迦の弟子の一人で釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有名な阿難(アーナンダ)の兄、または耶輸陀羅(ヤショーダラー、釈迦の后)の兄弟とする説が一般的である[3]。
彼の親族及び身辺は、
- Mah.II,Mah.Tika.p.86によると、Suppabaddhaの子にして、Bhaddakaccanaの弟とする。Mah.II.22では、釈迦族のSuppabuddaとAmita女との間に生まれ、釈迦の妃Bhaddakaccanaaの弟。Dap.A.III.p44には、Suppabuddaの子でYasodharaaの兄弟とする。
- 甘露飯王(かんろぼんのう、アムリトーダナ、Amṛtodana)の子で、阿難の兄とされる。
- 斛飯王(ごくぼんのう、ドローノーダナ、Droṇodana)の子で、阿難の兄。五通を得て驕り、阿闍世(アジャータサットゥ)王を唆して、釈迦仏を殺さんとした。富蘭那迦葉と親交があるという(大智度論)説。これが一般的に多用されている。
など、多くの説がある。
彼は釈迦族の諸王子たちとともに釈迦の弟子となったとする伝承が一般的である。諸律に伝えられる出家後の経歴は、当初から一貫して否定的に描かれているわけではない。『四分律』では、釈迦族の王子たちが修行によってそれぞれ成果を得た際、提婆達多も神足を得たとされる。『十誦律』ではさらに、出家後の最初の12年間、提婆達多は仏法に対して「信敬心清浄」であり、善心をもって修行し、読経・誦経・問法・坐禅を行ったと記されている[4]。『出曜経』にも、聡明で博学な比丘として12年間禅定と頭陀行を修め、不浄観・安般念を行い、多数の経を誦したという伝承がある[5]。パーリ律では他の釈迦族出身の弟子より低い段階に置かれるものの、出家後に世俗的な神通を得たとされ、後代の注釈では八つの禅定を得たとも説明される[6]。
パーリ語『ウダーナ』のPTS版には、提婆達多を舎利弗・目連・大迦葉らとともに釈迦が称賛する有力弟子の一人として挙げる本文もあるが、第六結集版では提婆達多の名を欠いており、本文異同には注意を要する[7]。また『ダンマパダ・アッタカター』には、寄進された衣を舎利弗と提婆達多のどちらに与えるかを比丘たちが議論し、多数が提婆達多を選ぶ説話があり、結末では批判されるものの、かつて舎利弗と競うほどの威信をもっていた人物として描かれている[8]。一方、『五分律』や『根本説一切有部律』では、出家直後の提婆達多の成果はより低く描かれ、後に得る神通や名声も利養を求める動機と結びつけられている[9]。
こうした肯定的な初期経歴について、歴史上の提婆達多が本来は森林修行を重視する聖者であり、後世の定住僧団によって悪人化された痕跡とみる説も唱えられてきた。しかし、李婵娜(Channa Li)は、このような歴史的復元を推測の域を出ないものとして退け、律における破僧規定との関係から説明している[10]。パーリ律や『十誦律』などでは、実際に僧団を分裂させ得る者は正規の比丘であり、戒律上の処分を受けていないことが求められ、説一切有部系の阿毘達磨や『摩訶僧祇律』では、他の比丘を従わせる威信や法・律への知識まで破僧者の条件として論じられている[11]。そのため、提婆達多を破僧者として成立させるには、物語の側でも彼がかつて一定の修行成果と名望をもつ比丘であったことを認める必要があり、その初期の成功は「歴史的な提婆達多」の残存ではなく、提婆達多を破僧の典型とするための文学的・思想的要請として解釈されている[12]。
一方、後代には提婆達多の出家そのものを不正なものとする異伝も生じた。『増一阿含経』では、釈迦が提婆達多の出家願を退けたため、提婆達多が自ら剃髪して袈裟を着け、「我は釈種子である」と称したとされる[13]。『仏本行集経』では、釈迦や上座比丘たちから出家を拒まれたのち、阿難とともに遠方へ赴き、提婆達多の行状や智慧を十分に調べなかった比丘から受戒したという形に改められている[14]。これらは提婆達多の悪性を出家以前にまで遡らせる伝承である一方、律が正規の比丘であることを破僧成立の前提とする規定とは緊張関係にあり、悪人化が進むにつれて「正規の比丘が僧団を分裂させる」という破僧者像との整合性が失われていったと分析されている[15]。
提婆達多が後に破僧へ向かった原因についても、諸伝承の説明は一様ではない。『五分律』では「名聞利養」が修行者を損ない、提婆達多の破僧も利養によって生じたと説かれ、『四分律』・パーリ語文献・『十誦律』にも、利得・名声・敬意への執着や悪友との交際などによって心が覆われたことを堕落の原因とする説明がみられる[16]。これらの説話では、かつて修行に励んだ比丘であっても名利によって堕落し得ることが教訓として示されている。これに対して後代の伝承では、提婆達多の悪性そのものが強調され、初期の修行成果も世俗的な神通へと格下げされ、その神通も名声や供養を得るための手段として描き直されていった[17]。
阿闍世との関係をめぐる説話にも差異がある。化地部・法蔵部・パーリ系の伝承では、提婆達多が童子などの姿に変身して阿闍世を驚かせ、神通によってその帰依と供養を得る筋書きが語られる。これに対して説一切有部・根本説一切有部系の説話では、神通が阿闍世に取り入るための手段として描かれ、提婆達多の卑屈さが強調される[18]。後者には提婆達多が阿闍世の唾液を実際に呑み込む説話も現れる。李婵娜は、釈迦が僧団の指導権を求めた提婆達多を「唾を食う者」と呼ぶ表現について、仏の言葉は虚偽や無意味な悪口ではあり得ないという仏語観から文字どおりの事実として説明し直した結果、この挿話が発達した可能性を指摘している[19]。
その後、提婆達多は僧団の指導を自らに委ねるよう釈迦に求めたと伝えられ、さらに五つの修行規定を掲げて僧団の分裂を図ったとされる[19][20]。しかし、この「五事」は諸律で内容が一致せず、『摩訶僧祇律』には五つの苦行を掲げる説話自体がみられない。李婵娜は、六つの律に共通する破僧説話を提婆達多伝承の中核とみる一方、五事をそれより後に加えられた層と位置づけている[21][20]。
パーリ律では、森林に住むこと、托鉢によって生活すること、糞掃衣を着ること、樹下に住むこと、魚肉を食べないことの五項が挙げられる[22]。これに対して『五分律』では、塩を食べないこと、酥乳を食べないこと、魚肉を食べないこと、乞食して他人の招待を受けないこと、春夏は露地に住み冬は草庵に住むことが五事とされる[22]。『四分律』は糞掃衣・乞食・露地住・魚肉断ち・酥塩断ちを挙げ、『十誦律』では一食の規定が含まれる[23]。さらに『根本説一切有部律』には、苦行を勧める型のほか、より緩やかな型、さらには提婆達多が苦行そのものを退ける型まで伝えられている。諸伝承を比較すると、少なくとも十種類の修行規定が「五事」の構成要素として現れており、一つの固定した五項目が諸部派に共通して伝承されたわけではない[24]。
もっとも、五事を構成する修行項目そのものが仏教の修行として否定されていたわけではない。各伝承に現れる項目のうち、森林住・乞食・糞掃衣・三衣・露地住・樹下住・一食は、後に体系化された頭陀行の諸項目とも重なっている[25]。また、金銀を所持しないことは通常の律規定にも含まれ、魚肉や乳製品を避ける修行も、一部の修行者に対する規定や大乗文献などでは正当な実践として認められている[26]。
そのため、提婆達多の五事を、標準化された頭陀行を単純に厳格化したものとみなすことには問題がある。諸律では通常「五事」「五法」などと呼ばれ、『四分律』だけが明確に「頭陀勝法」と表現している。五事と後世に体系化された頭陀行とは直接の派生関係にあったというより、双方が既存の苦行実践を共有しながら別々に形成された可能性が指摘されている[27]。
仏教文献における苦行の評価自体にも幅がある。大迦葉に代表される頭陀行者は、欲望を抑制する清浄な修行者として高く評価される一方、苦行が中道から外れた極端な実践となることや、名声・供養を求める手段として利用されること、僧団の制度的・経済的秩序との緊張を生じさせることへの警戒もみられる。提婆達多の五事をめぐる説話は、こうした苦行に対する両義的な態度のうち、苦行が誤った動機や僧団への対抗と結びつく側面を強く反映したものと分析されている[28]。

また、彼は五逆罪(ごぎゃくざい)に抵触する罪を犯したため、生きながら無間地獄に落ちたといわれている。なお彼が犯したとされる五逆罪にあたる行為とは以下の通りである。
他にも提婆達多はナーラーギリという象を酒に酔わせて、釈迦を襲わせた[31]。阿難長老は三度拒まれても、象から釈迦を庇おうとしたという[32]。この後、ナーラーギリは釈迦の神通力と威光に圧倒された[33]。

提婆達多の仏教と位置づけ
7世紀にインドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、提婆達多が生きながら地獄に堕していった穴がインドに残っていたこと、またベンガル地方では後期まで提婆達多派の教団が存在しており、三伽藍を擁して乳酪を口にせず提婆達多の遺訓を遵奉し、過去七仏の中でも釈迦仏を除いた賢劫の三仏を信奉していた事などが記されている。また法顕三蔵も5世紀にネパール国境近くで提婆達多派の教団に遭遇したと報告している。
部派仏教における扱い
提婆達多の伝記的説話は、古代上座部系の五つの律、すなわちパーリ律・『五分律』・『四分律』・『十誦律』・『根本説一切有部律』と、『摩訶僧祇律』を中心に伝えられている。古代上座部系の各律では経分別と犍度の双方に提婆達多説話があり、『摩訶僧祇律』では経分別を中心に伝承される[34]。これら六律に共通して確認される主要な要素は破僧活動であり、提婆達多像の中核には、僧団内で異説を唱えて分離を図る最初の破僧者としての性格がある[21]。『摩訶僧祇律』の説話は比較的簡潔であるものの、現存説話の長短や要素の多寡だけから各伝承の年代的な先後を確定することには慎重であるべきだとされる[35]。
各律で描かれる破僧の具体像は、その律が定める破僧の成立要件と密接に対応している。たとえば『四分律』では、妄語・相似語、羯磨、取籌などが破僧の要件として挙げられ、双方に少なくとも四人の比丘がいることが必要とされる。提婆達多説話でも五事について投票が行われ、五百人が提婆達多側に、阿難を含む六十一人が反対側に立ったのち、提婆達多一派が伽耶で別個に羯磨と説戒を行う過程が描かれる[36]。『五分律』では同一の界内で少なくとも八人が分かれて別個に僧事を行うことが成立条件とされ、説話でも提婆達多と七人の支持者によってちょうど八人が構成される[37]。パーリ律・『十誦律』・『根本説一切有部律』にも、それぞれ必要人数・布薩・羯磨・投票などの規定に対応する形で提婆達多の破僧が描かれている[38]。
このような対応から、提婆達多説話は諸律における破僧規定を具体的に示す典型的な物語として位置づけられている。ただし、律の法規定が説話を形成したのか、説話が法規定の形成に影響したのかという因果関係については、確定できる年代的証拠がないため判断が留保されている[39]。
一方、律における破僧の評価は、僧団が分かれるという結果だけを一律に同じ悪業として扱うものではない。『五分律』では、法・非法について本人がどのように認識し、その認識に反して虚偽を述べたかどうかが重視される。非法であると知りながら法であると主張して僧を分裂させた者は一劫にわたる地獄の果報を受けるが、非法を実際に法であると誤認し、その認識どおりに述べた場合は同じ果報を受けない類型が示されている[40]。『四分律』にも類似した考え方がみられ、『十誦律』では正しいと考えて行う破僧と、邪見・無明を伴う破僧とが区別される。根本説一切有部系の律釈にも、善意から行われ「破衆心」を伴わない分離を同じ罪としない説明がある[41]。
この枠組みでは、提婆達多が非難される理由は僧団を分けたという結果だけにあるのではない。五事が釈迦によって全比丘に義務づけられた規定ではないことを知りながら、それを正しい法として義務化しようとした点に問題が置かれ、提婆達多の行為は正当化されない破僧の典型として構成されている[42]。
破僧に科される罪についても、律蔵の規定と後代の阿毘達磨的理解には差がある。現存する諸律では、破僧を企てる比丘に対してまず繰り返し諫めを行い、これに従わない場合に白と三度の羯磨を進める段階的な手続が定められている。途中で破僧を断念すれば、その段階に応じて突吉羅・偷蘭遮などにとどまり、第三羯磨まで終えて初めて僧残罪が成立する。僧残は直ちに僧籍を失う波羅夷とは異なり、所定の手続を経て僧団に復帰する余地を残す罪である[43]。
これに対して、説一切有部の阿毘達磨文献では破僧が五無間業の一つとして体系化され、さらに五無間業の中でも特に重い罪として阿鼻地獄への再生と結びつけられた[44]。したがって、破僧を律上の僧残罪として段階的に処理する議論と、無間業として道徳的・宇宙論的に断罪する議論とは異なる文脈で形成され、後世の提婆達多理解では両者が重ね合わされたと分析されている[44]。
この差異は、提婆達多と大天(Mahādeva)という二人の著名な破僧者の伝承形成とも関連づけられている。提婆達多は律の破僧規定を具体化する人物として形成されたのに対し、大天の悪人像は説一切有部系の阿毘達磨文献において五無間業と強く結びつけられて発達し、のちに無間業の観念が広く浸透するにつれて、両者の伝記に類似した悪行が重ねられていったとされる[45]。
説一切有部の阿毘達磨では、さらに破僧を「破羯磨僧」(karmabheda)と「破法輪僧」(cakrabheda)に区別する理論が発達した。前者は同一の界内で別々に布薩・羯磨・説戒などを行う制度上の分裂であるのに対し、後者は仏とは異なる師と道を立てる分裂とされる[46]。提婆達多は「我こそ師であって沙門瞿曇ではない」「五法こそ道であり、瞿曇の説く八正道ではない」と主張する人物として、破法輪僧の典型に位置づけられた[47]。
この阿毘達磨的分類では、破羯磨僧は悔過の余地があるのに対し、破法輪僧は無間業として阿鼻地獄の果報をもたらすものとされる[48]。また、破法輪僧には成立する時期について厳格な制約があり、仏の入滅後など六つの時期には成立しないと整理されるため、釈迦在世中に仏自身と異なる師・道を立てた提婆達多がその唯一の典型とされた[49]。ただし、この厳密な二分法は阿毘達磨において体系化された理解であり、諸律の提婆達多説話が当初から同じ分類に従って構成されていたとは限らず、主要な律の破僧議論より後に成立した可能性がある[50]。
提婆達多の悪人化が進むにつれて、こうした破僧規定との間には別の矛盾も生じた。律学上、僧団を分裂させ得る者は清浄な戒を保ち、一定の威信を備えた正規の比丘でなければならない。しかし後代の提婆達多は、殺仏未遂や出仏身血など複数の無間業を犯した極悪人として描かれるようになり、そのままでは破僧者としての資格と両立しなくなる[51]。
この問題は仏教文献内部でも認識され、『阿毘達磨大毘婆沙論』などの説一切有部系阿毘達磨では、提婆達多はまず破僧を行い、その後に他の重大な無間業を犯したとする時間的順序が論じられた。先に他の重大な罪を犯して清浄な比丘としての資格を失えば、その後に破僧することができないからである[52]。しかし現存諸律の多くは、釈迦殺害の試みなどを破僧より前に置いており、この順序には従っていない。『増一阿含経』は例外的に破僧を先に置くが、李婵娜は、説一切有部系阿毘達磨にみられる「まず破僧、のちに他の無間業」という順序を、異なる文脈で形成された提婆達多像を整合させるために後から構成された説明とみている[53]。
『増一阿含経』にも提婆達多の長い伝記が収められているが、他の阿含・ニカーヤ類ではこのような長編の提婆達多伝は稀である。李婵娜は、その内容が律に伝わる提婆達多説話と密接に関連していることから、同経の長編伝記が他の文献資料を取り込んで形成された可能性を指摘している[34]。
なお同経には、彼の末路が詳細に述べられている。彼は三逆罪を犯した後、自身の爪に毒を塗り釈迦を殺さんとするも、地中から炎の暴風が巻き起こり巻き込まれる。この刹那に提婆達多は悔いて「南無仏」と言おうとしたが焼き尽くされ、地獄の最下層である阿鼻地獄へと堕ちていった。彼は現在、賢劫中は阿鼻地獄に堕しているが、その後四天王に生まれ、幾度か転生を繰り返し天界を次第に昇り、最後に人間界に戻ってくるという。地獄に堕ちる直前に「南無仏」と称えようとして言い切ることが出来ずに地獄に堕ちた因縁から、「南無」(Namas)という名の辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)になるといわれる[54]。
ジャータカ(釈迦前世物語)には、釈迦と提婆達多の因縁が描かれる。ジャータカにおける提婆達多については、ミリンダ王の問い(インド・グリーク朝の王メナンドロス1世と比丘ナーガセーナの対話)で補足されている[55][56]。
まず、釈迦と提婆達多が前世において商人だった頃、零落した家の祖母と孫娘が使っていた黄金の器をめぐって争う[57]。提婆達多は安く手に入れるために策略を回らしたが、釈迦は正直に打ち明けて女から黄金の器を手に入れる[57]。黄金の器を手に入れそこなった提婆達多は怒りのあまり死んでしまい、「これがボーディサッタ(菩薩)に抱いた最初の恨みである。」と述べている[57]。 以後、ジャータカの数々の逸話で提婆達多と釈迦は遭遇するが、時に提婆達多と釈迦は父親と息子、あるいは提婆達多が人間(人間道)、釈迦が動物(畜生道)として登場する[58]。これについて、ミリンダ王の問いでは「デーヴァダッタは釈迦にだけ敵対したのであって、釈迦と遭遇しなかった生涯では数々の善行と布施を行い、功徳をつみ栄光を受けた」と述べている[59]。

提婆達多の末路については、自らの所業を後悔して釈迦に謝罪しに行くものの、祇園精舎の入り口にあった蓮池の付近で地面が裂け、地獄から噴き出た火に包まれる[60]。提婆達多は「わが骨をもって、いのちをもって、かの最上の人、神の神、人を調御する者、あまねく一切を見る人、百の福相をもつ人、そんな仏に、帰依したてまつる」(ミリンダ王の問いでは「全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に超えすぐれた神、調御をうける人の御者、普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します」)と詩を唱えて、アヴィーチ地獄(無間地獄)に落ちた[60][61]。また提婆達多に従っていた500家族の侍者も、一緒に地獄へ落ちた[60]。
釈迦は提婆達多が自分の元で出家した場合、一時は地獄に落ちるものの最終的に苦しみから脱すると知り、あえて出家を許したとする[62]。提婆達多は死ぬ前に前述の詩を述べて釈迦に帰依したため、地獄を脱したのちにアッティッサラ(Aṭṭhissara)という名前の「独覚」になるという[61]。
大乗仏教における扱い

大乗の『大般涅槃経』では、提婆達多に対する従来の断罪そのものが再解釈される。同経では、提婆達多が実際に釈迦を害し、出仏身血や破僧を行って地獄に堕ちたという理解が否定され、これらの行為は衆生に応じて示された方便として説明される。破僧も戒律を制定する契機を作るための示現とされ、如来の真実の身は傷つけられないと説かれる[63]。
『方便善巧経』では、過去世の提婆達多が菩薩であった釈迦に繰り返し困難を与え、財物や身体を求め、戒行を妨げ、打罵を加えたとされるが、そのたびに菩薩は布施・持戒・忍辱などを実践する機会を得たと説かれる。精進・禅定・智慧についても同様に説明され、提婆達多の敵対行為そのものが釈迦の六波羅蜜を完成させる契機として位置づけられている[64]。
『大雲経』にも、提婆達多が実際に釈迦を害したという理解を退け、釈迦の仏道を助ける菩薩とする説明がみられる。また、中国で成立したとされる『大方便仏報恩経』では、釈迦は提婆達多に遇ったことによって速やかに成仏できたとしてその恩を説き、提婆達多を衆生を利益するためなら地獄の苦をも引き受ける大菩薩として描いている[65]。
『法華経』「提婆達多品」では、過去世の提婆達多が釈迦に法華経を授けた仙人であったとされ、釈迦は提婆達多を「善知識」と呼び、彼によって六波羅蜜をはじめとする諸徳を完成して成仏することができたと説く。また提婆達多自身にも、未来に天王如来(Devarāja)となるとの授記が与えられている[66]。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この悪人の成仏を主張している。
また、「浄土和讃」(親鸞著)では、「仏説観無量寿経」に登場する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、ガウタマ・シッダールタ(釈迦如来)、プールナ、マハーマウドガリヤーヤナ、アーナンダ、ビンビサーラ、ヴァイデーヒー、ジーヴァカ、チャンドラプラディーパ、アジャータシャトル、雨行大臣、守門者と共に、デーヴァダッタが浄土教を興起せられた15人の聖者として列せられている。[67]