勝新太郎

日本の俳優 (1931-1997) From Wikipedia, the free encyclopedia

勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年〈昭和6年〉11月29日 - 1997年〈平成9年〉6月21日)は、日本俳優歌手脚本家映画監督映画プロデューサー三味線師範

本名 奥村 利夫(おくむら としお)
別名義 二代目杵屋勝丸
生年月日 (1931-11-29) 1931年11月29日
没年月日 (1997-06-21) 1997年6月21日(65歳没)
概要 かつ しんたろう 勝 新太郎, 本名 ...
かつ しんたろう
勝 新太郎
勝 新太郎
(1964年撮影)
本名 奥村 利夫(おくむら としお)
別名義 二代目杵屋勝丸
生年月日 (1931-11-29) 1931年11月29日
没年月日 (1997-06-21) 1997年6月21日(65歳没)
出生地 日本の旗 日本東京市深川区
(現・東京都江東区
死没地 日本の旗 日本千葉県柏市国立がんセンター東病院)[1]
職業 俳優歌手脚本家映画監督
映画プロデューサー三味線師範
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1954年 - 1997年
配偶者 中村玉緒
著名な家族 杵屋勝東治(父)
若山富三郎(兄)
鴈龍(長男)
奥村真粧美(長女)
公式サイト 勝新太郎オフィシャルWEBサイト
主な作品
映画
不知火検校』/『悪名』シリーズ
座頭市』シリーズ /『兵隊やくざ』シリーズ
にせ刑事』/『燃えつきた地図』/『人斬り』/『やくざ絶唱』/『顔役』/『御用牙』シリーズ / 『海軍横須賀刑務所』 / 『無宿』/ 『迷走地図』 / 『帝都物語』/『浪人街
テレビドラマ
座頭市物語』/『痛快!河内山宗俊
新・座頭市』シリーズ /『警視-K
『下町物語』/『独眼竜政宗
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1997年
ブルーリボン賞
大衆賞
1963年『座頭市シリーズ』
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1963年『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』
ホワイトブロンズ賞
(地方新聞映画記者会賞)
主演男優賞
1963年『座頭市シリーズ』
日本映画記者会賞
特別賞
1963年『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』
NHK映画賞
主演男優賞
1966年 男優主演者としてもつとも実績をあげた
毎日映画コンクール
男優演技賞
1971年『顔役』他
ゴールデン・アロー賞
(日本雑誌芸能記者会賞)
大賞
(受賞者:勝新太郎と勝プロダクション)
1972年『子連れ狼シリーズ』
テンプレートを表示
閉じる

本名:奥村 利夫(おくむら としお)。血液型O型[2]市川雷蔵とともに大映の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。

勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された[3][4]。2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれた[3]

来歴

生い立ち

長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として、母方の実家のある千葉県柏市で生まれる。生家は東京府東京市深川区(現・東京都江東区)。若山富三郎は二歳上の兄。同学年の宇津井健幼馴染。旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。十代の頃は長唄三味線の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。長唄の名取二代目 杵屋勝丸1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。

大映時代

デビューした当時は、愛くるしい美青年俳優だった(1954年撮影)

23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった[5]。同年代の雷蔵・山本富士子若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの長谷川一夫そっくりの同じ担当者が手掛けたメイク[6]も板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」、「勝の主演ではヒットしない」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが[5]1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新させることとなる[7]

勝新太郎と市川雷蔵、終生の友(嵐山の自宅で雷蔵をもてなす勝新、1958年撮影)

1961年、すでに婚約している勝と中村玉緒は『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)で共演している[注釈 1]。この映画が初のヒットとなりシリーズ化。勝は続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得[8]。1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、一躍大映の大黒柱の一人となる。これ以降、1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、新太郎と市川蔵は大映の2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨を支えた。特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている[7][8]

歌手としても、1967年に大映レコードの新譜第一号として発売した「座頭市」(別題「座頭市の唄」)がヒットした[9]

『長唄の会』にて三味線の腕前を披露する勝新太郎(1965年4月19日東京撮影)
映画『座頭市地獄旅』ロケ。中心下が勝新太郎。右上が監督の三隅研次(1965年撮影)

勝プロ時代

1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す[8]。この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎三船プロ石原裕次郎石原プロ中村錦之助の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた[10][11]

勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、三隅研次安田公義森一生増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、勅使河原宏五社英雄斎藤耕一黒木和雄ら、当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督(斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演した。また、一方では『男一匹ガキ大将』や実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身も主演した『御用牙』などマンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出した。

サンパウロ日伯援護協会あゆみの箱チャリティショウ。左から森繁久彌、中沢源一郎、伴淳三郎志摩夕起夫、勝新太郎、渡辺はま子(1971年8月撮影)

特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでの日本映画の映画文法を破り、先進的な手法を使った作品と評された[12][13]

1974〜1975年に『座頭市物語』をテレビで製作したのですが、視聴率がすごく良く、それでフジはずーっと、一年中やってくれと言ってきた[14]。1974年から1979年にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)する[15]

特筆すべきは、この『座頭市物語』を契機として、勝が松平健の育成に心血を注いだことである。本作に出演させて住み込みの弟子として徹底的に鍛え上げ、役作りのための心構えや立ち振る舞いを伝授した。これが、後の松平の出世作であり代表作となる『暴れん坊将軍』(1978年、テレビ朝日系)の主演および時代劇スターへの大成へとつながった[16](のちの1980年には、勝プロダクション製作、松平主演のテレビドラマ『走れ!熱血刑事』も放映されている)。

1978年5月10日、マネージャーと俳優の酒井修が阿片所持で逮捕された際、勝もアヘン26グラムと吸煙器の処分を依頼された嫌疑により書類送検される事態となる。同年5月26日の記者会見(帝国ホテル)において、勝は「イランの貴族から贈られ社長室に保管していたが、芸能界での大麻事件頻発を受けて処分を頼んだに過ぎない」と釈明した。鑑識による調査においてもパイプ(吸煙器)からアヘンを吸った形跡は見つからず、勝の証言の正当性が証明された[17]。事件は同年9月に勝が起訴猶予処分となったことで終結したが、フジテレビ系でスタートしていたテレビ時代劇『新・座頭市』(第2シリーズ)が放送中止に追い込まれる(翌年に放送再開)[17]、勝プロダクションの経営および財政面に打撃を与えた[18]

勝はテレビ時代劇『新・座頭市』(第3シリーズ)の製作・撮影中、映画『影武者』の主演オファーを受けた[14][19]。この大作への出演準備に際し、勝は後進の育成を目的として「勝アカデミー」という学校(俳優養成所)を開設した[20][21]。同校では、演技実習、リズムダンス、日本舞踊、殺陣、発声、メイクアップなど多方面にわたるカリキュラムが組まれ、勝自身に加えて、増村保造新藤兼人勅使河原宏森一生宮川一夫森繁久彌若山富三郎緒形拳津川雅彦原田芳雄萩原健一中村玉緒太地喜和子藤村志保中野良子ら、芸能界の第一線で活躍するエリートたちが勝との親交から講師として協力した[20]。その後、1979年の映画『影武者』では、監督の黒澤明と衝突し降板[19]。この波乱の最中やその後も「勝アカデミー」での養成は続けられ、同校の卒業生として芸能界への一歩を踏み出した著名な人物には、小堺一機ルー大柴などがいる。

1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになるなど、断続的な打撃が重なった。実態としては、ドラマの製作赤字自体は大したことはなく、勝自身の個人経費もあったものの、水商売(二軒の高級クラブ経営)への投資失敗が会社全体の足を引っ張り、勝プロダクションを倒産へと直結させた[14][22]。1981年に12億円の負債を残し倒産。この時の記者会見で「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年、中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立。

1980年代以降

勝プロダクションの倒産後、勝は歌手としての活動や舞台、タレント業を精力的に展開し、莫大な債務の返済に奔走した[14][23]

1986年、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987年放送)の製作準備に際し、勝は豊臣秀吉役の「それが出来るのは、勝さんをおいて他にいません」とされる不二人選として出演オファーを受けた[24]。同作は39.7%という歴代最高平均視聴率を記録する大ヒット作となったが[25]、勝は本番になるとリハーサルと芝居をガラリと変えることで知られ[24]、その演技は「じつに魅力的」「(役に)ピッタリ」などと絶賛されたほか[26]、その熱演は共演者を引きこんでいった[27]。また、「勝に喜んでもらいたい、勝に認めてもらいたい」という思いが現場のスタッフたちの大きなモチベーションとなったとされる[24]。本作での共演を経て、勝は主役を演じた渡辺謙の役者人生において最も強烈な影響を与えた人物となった[28]

1989年、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・雄大(この頃、本名で俳優デビューした)が殺陣の撮影中、斬られ役の役者を誤って真剣で斬りつけ死亡させてしまう。結局これが勝製作の最後の映画となった。勝の出演作品としては1990年、黒木和雄の監督映画『浪人街』が最後となった。

1990年1月16日、勝はアメリカ合衆国ハワイ州ホノルル国際空港で下着にマリファナコカインを入れていたとして現行犯逮捕される。麻薬を下着に入れていた理由について「気付いたら入っていた」と述べ、逮捕後の記者会見では「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。」ととぼけ通し、結局、誰から薬物を受け取ったかについて、最後まで口を割ることはなかった。帰国した翌年に日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受ける。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。この事件以後、俳優活動の場を舞台に移す。

1996年7月に下咽頭を発病。入院はしたが[29]手術はせず、抗癌剤放射線治療を行った。入院中も外出を繰り返して寿司を楽しみ、平然と煙草をふかした。約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙する様を見せた。しかし実際には療養中は禁煙し、会見での喫煙はパフォーマンスだった(煙を肺まで吸い込まず、口元でふかしているだけ)、と中村玉緒や鴈龍は後に振り返っている[30]

死の前年である1996年4月23日には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」に出演した。最後の舞台は大阪新歌舞伎座で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。

1997年6月21日午前5時54分、入院先の柏市の国立がんセンター東病院において下咽頭癌で死去[1][31]65歳没。それも前年に父親を亡くしたばかりだったため、父親の後を追うような形となった。

没後

東京都港区三田の蓮乗寺にある勝の墓。兄の若山富三郎と共に眠る。
(※:写真は2012年1月6日(金曜日))

葬儀は1997年6月24日、東京都中央区築地築地本願寺で行われ、約11000人が参列した。法号は「大光院明利能勝日新居士」。出棺の際は「勝ちゃんありがとう」と多くのファンに見守られ、遺体は渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。現在は兄の若山富三郎と共に前述の蓮乗寺に眠っている。2024年現在、勝プロ製作作品や肖像権等の各種権利は「株式会社ティーエムプロダクション」が管理している[32]

1998年の第21回日本アカデミー賞において、会長特別賞を授与された。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位になった。2014年に映画関係者や文化人を対象にした『キネマ旬報』のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれた[3]

2021年9月13日に放送されたNHK Eテレワルイコあつまれ』の「芸能界むかしばなし」にて、勝の半生の絵本風読み聞かせが、稲垣吾郎によって行われた[33]

2025年秋、勝プロダクションが公式サイト『新太郎オフィシャルWEBサイト』を開設した[34]

夫婦関係

初共演と結婚(1955年 - 1960年代)

1955年、ともに大映の俳優であった勝新太郎と中村玉緒は映画『カンカン虫は唄う』で初共演を果たし[35]、その後も数々の作品で共演を重ねた。勝は後年「玉緒ちゃんとまさか結婚するなんて考えもしなかった」と回想しているが、映画『不知火検校』(1960年)での共演時、演技を通じて玉緒の女性らしさと芯の強さに惹かれていったという[36]

交際当時は勝の言動に何でも「ハイハイ」と従っていた玉緒だが[37]、1961年の婚約翌日には、勝は早くも二人の性格が合わないことに気づいたという[38]。それは玉緒の持つ気性の強さが露わになったためであり、勝は後年「こいつはちょっとしまった(選択を誤った)かな」と心境を回想している[37]

1962年3月7日、二人は東京の帝国ホテルで挙式した[39]。しかし、二人の家庭観は全く異なるものであった。勝は「平和が大嫌いだ。いつも、ガサガサ動き回ってなくては気が済まない」と家庭的な団欒を嫌悪したのに対し[40]、玉緒は「普通の家庭の主婦におさまり、こういう家庭を築きたい」と理想の家庭像に憧れていた[41]。さらに、二人の経済観念には大きな隔たりがあり、周囲からは「笊と巾着が結婚した」と評されるほどであった。玉緒は結婚直後すでに「とんでもない人と結婚した」と後悔し、勝自身も「玉緒と結婚したのはまちがいだった」ともらしていたという[42]

結婚当年的うちには夫婦喧嘩が始まり、玉緒がたびたび実家へ帰る事態となった[43]。翌1963年には勝が家を出て京都のホテル藤田で暮らすようになり、事実上の分居生活が始まる[44]。その後も二人の衝突は「定期戦」のごとく派手に繰り返されるようになり[45]、1964年頃には勝が親しい人物に離婚の意向を相談したものの、説得されて思い直す一幕もあった[43]。1965年には二人の婚姻危機がメディアによって表面化するに至ったが[43][45]、この時は最終的に立ち消えとなった。

公開された多くの報道や記録では、玉緒が、かつて人目の多い公の場で勝に対して指図し[42][46]、また日常の各方面で勝に対して勝負を挑み[37][42][46][47]、さらには仕事の社交の場で夫婦間の不満から激昂して勝の面目を潰し置き去りにして立ち去り[48]、さらには深夜、自宅の客たちを退散させた後、凄まじい怒りとともに勝の頬を平手打ちした[49]。勝は玉緒に対して「女を感じない」と漏らし[42]、自身の妻や配偶者としての実感も「あんまりない」という状態であった[38]。その一方で、「女にもてる」という評判の勝[40]は浮気を繰り返し[50]、玉緒が「浮気はイヤ」とそれを嫌悪する一方で[46]、勝は玉緒に対して常々「浮気をすすめたり」しており[40]、配偶者認知や貞操観念を巡っても対立していた。

離婚騒動と別々の生活(1970年代)

1971年7月、子供の教育のため玉緒と子供が横浜へ転居し、勝は仕事のため京都に残ることで[50]、生活拠点は二分された。これが、婚姻関係のさらなる複雑化の懸念となった。

1971年8月17日夜、東京・六本木の勝プロダクション事務所において、玉緒が公事に干渉したことから勝と激しい口論に発展した[51]。玉緒が別れを切り出すと、勝は「そのことばを10年間待っていた」と言い放ち、即座に記者へ連絡して「離婚宣言」を発表した[51]。やがて勝は仕事のため出国(サンパウロへ出発)したが、この勝の不在期間中、玉緒は一貫して離婚を拒否し続けた[51]。騒動の最後には、玉緒が勝の前に土下座して「どうか、置いてください」と懇願し、勝が「俺は、生活態度を変えないよ」と応じる一幕があったとされる[52]。その後、1971年9月13日に勝は離婚解消を宣言した[53]。同日、玉緒も単独で記者会見を開き[53]、「反省の気持ちでいっぱいです。今後は主人につくしたい」と語り、この離婚騒動は終息を迎えた[54]

その後、二人は衝突を避け、勝は玉緒と旅行をしなかった。社交上で共に渡航する必要がある場合でも、空港へは別の車で向かうほどであり、これは車中での喧嘩によって共に行き、共に帰ることができなくなる事態を避けるためであった[55]。1970年代に勝プロが『座頭市』などのテレビドラマを制作するなると、勝は別々に生活して半年に一度も帰宅しないこともあり、「あまり会わないからいいんじゃないか」と語っていた[37]

勝プロ倒産と相次ぐ危機(1980年代)

1981年9月、勝プロが巨額の債務により倒産した際、取締役の一人であった玉緒が離婚を切り出したのに対し、勝は「オレを見捨てるのか」と怒鳴りつけたと報じられている[56]。結局、勝が一俳優として再起を誓い、玉緒が社長に就任することでピンチを切りぬけた[56]。次いで1982年3月に子供たちが大麻取締法違反の容疑で逮捕され、この夫婦が教育方法や責任を巡って激しい衝突を展開した末に、玉緒のほうから「息子は父に、娘は母に」という別れ方での離婚が提案されたと伝えられ、この一件以来、夫婦間では冷戦状態が続いていたとされる[56]

晩年の共処と最期(1990年代)

1990年代、勝は映画における脇役のオファーを断り続け[14]、映画仕事や経済活動がほぼ停滞する中で、友人たちの援助によって生活していた[57]。この時期、二人は時に衝突を交えながらも、一組の夫婦として東京の自宅で生活を共にし続けていた[57][58]。また、1996年には勝の親友である画家のバルテュスの誕生日を祝うため、夫婦として最初で最後となる二人きりの旅行(2日間ほどのスイス旅行)に出かけていた[59]。玉緒は以前、勝が監督する映画で主役として撮ってほしいと何度も企画を出したものの、映画監督としての勝の厳格さもあり、ついに実現しなかったが、最後にやっと女優として認められたのが同1996年の舞台『夫婦善哉』であった。しかし、その巡演の最中に勝のガンが発覚する[60]。1994年以降、玉緒がバラエティ番組で大ブレイクを果たしたものの、勝は自身の活動において経済的に妻に頼ることはなく、療養中も最後まで自身の資金援助(手形を切り続けてくれた)をしてくれた後援者への礼の印として、父の遺物(形見)である三味線を贈った[61]。1997年6月21日、勝は玉緒の目の前で死去した。玉緒が「やっと夫婦らしくなったと思ったら、死んでしまいました」と語った通りであった[59]

逸話

縮れ毛で寝癖がつきやすく、起床直後にシャワーを浴びて直していた。顔つきもドーランとの相性が壊滅的に悪く、「顔が邪魔なんだから(笑)」と自虐するほどだった[62]

成人してからも、母・八重子を兄共々、実家では「お母ちゃん」と呼んでいたが、人前では分別を弁え「お母さん」と言い換えていた。勝曰く、「母」は発音し辛く、「ママ」は照れくさいからとのこと[63]

その日その日を全力投球する性格で、予定を立てて行動するのが苦手であると、生前語っている。そのため、明日や来年のために我慢することが出来ないと断言している[64]

一週間のアメリカ巡業中、英語は全くできなかったが、賭けに勝ったことで通訳係を押し付けられた。道中、注文を言い間違えて無駄な出費をするなどトラブルもあったが、持ち前の度胸さとボディランゲージで乗り切ったため、同行していた吾妻徳穂 (初代)などは、勝が英語に堪能だと帰国後も勘違いし、「あの方はおモテになって」と後年『徹子の部屋』にて、武勇伝として吹聴してしまった。そのため、勝が同番組に後日出た際、真相を説明する事態となった[65]

入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであったが、雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。

1960年代後半に入ると、大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田雅一社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのためストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため、勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」ことを勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映No.1となった、と勝は語る。しかし、すぐに雷蔵のギャラも500万円となり並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次監督は、「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。

好物はオムライス。豪放磊落といわれた自身のイメージに合わないため、大映京都撮影所近くの飲食店では、店の奥でファンに見つからぬよう隠れて食べていた。

三味線に関しては十代の頃から師匠をしており、その腕前は晩年まで衰えなかったと伝えられている[66]。また実の祖父は検校で、琴や三味線を生業としており、70年代に実家の墓を捜索した際、偶然に発見したという[67]

映画『人斬り』で最初に三島由紀夫に共演依頼したのは勝だったが、不慣れな三島が現場で困らないように事前に三島の言う台詞をテープに吹き込んで細かく説明し、撮影現場でも三島を励まし助けていたという[68]。しばしば三島が、勝には随分世話になった、あんないい奴だとは思わなかったと感謝していたのはこうした理由があった[68][69](詳細は人斬り (映画)#勝新太郎と三島由紀夫を参照)。また勝は、三島の『午後の曳航』の映画化の希望を抱いていたという[70]

勝のテレビ初主演作である『悪一代』(1969年朝日放送制作、TBS系放映)全13話のうち、最終回放送分のテープが現存しており、横浜情報文化センター内の放送ライブラリーで閲覧する事が出来る。この作品は、勝の出世作である映画『不知火検校』(宇野信夫原作)をベースに作られており、テレビドラマの演出手法の常識を破った画面構成なども話題になった。ちなみに、全13話放送分のうち、最終回1話分のテープしか現存していないのは、当時の番組は2インチVTRで制作されており、機器・テープともに高価であったため、収録されたテープのほとんどが他の番組への収録で使い回されて上書き・消去されてしまったためである[注釈 2]

演出をする際、斬られ役に対して、「朝、目が覚めて今日斬られて死ぬことを知らない」と持論を述べた上で、斬られても直ぐ倒れず、少し歩いて体に痛みが走って、流れる血を見て倒れるといった、性格を持った立ち回りを希望した。反面、演出と出演を兼任すると、自身の役柄について深く考えることが出来なくなるため、「そこがぼくのダメなとこなんだけども……」と生前に語っている[71]

1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で演じた豊臣秀吉は、「サル」や「人たらし」などと評される従来の秀吉像を覆すような配役で話題となった。本作の主人公伊達政宗が「化け物」と評したように、本作では若き政宗の前に立ちはだかる大きな壁という位置づけであり、「渡辺謙(政宗役)=知名度の高くない若手」「勝新太郎=衆目の知るところの大御所」という図式が、そのまま「伊達政宗=奥羽の若き大名」、「秀吉=老成した天下人」にも当てはまるなど、役者の立場・イメージと演じる役の立場がぴったりという印象が強いのも特徴である。秀吉と政宗が初めて会うシーンではそのイメージと緊張感をつくり上げるために、史実に合わせて本番まで渡辺謙と一度も顔を合わせなかったという[72]

洋楽ではカーペンターズの曲をよく聴いていた。そのため、中村玉緒が『トリビアの泉』(フジテレビ系)にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて…」と言っていた。

ブレイク前のMr.マリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。

晩年の住居は東京タワーが見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の葬儀では、玉緒の希望により祭壇脇に東京タワーのミニチュア(高さ4.5m)が組まれた[73]。勝の豪放な語り口・私生活・自由奔放で泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている[注釈 3]

テレビインタビューで鴈龍の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。これは、大映時代の弟子筋にあたる細谷新吾(日高晤郎)が考案したものを気に入り、これを元にして自身のサインを作った[74]

「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満体型になり、役柄も限定されるようになった。大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車に高級な服と豪勢な生活を続け、返済できぬまま死去。結局、妻の玉緒が完済のために奔走することとなった。ちなみに、1978年に42歳で早世した歌手の水原弘は、1960年代に一時映画界に進出した際、勝と懇意となり「兄貴分」と慕うようになるが、勝のこうした生き様への憧憬から以来、奔放な生活へ傾倒。結果、ギャンブルや豪遊による莫大な借金を抱え、日常的な飲酒で命を縮めることとなった。

勝のマネージャーによると勝はポケットにティッシュのように丸めていた1万円札をチップとして携行していたといい、ある日マネージャーは1万円札20枚を渡され、自分の代わりにチップを渡すように勝に頼まれた。マネージャーはチップを5000円に崩して渡したが、勝は「俺がなぜチップを渡しているかわかるか。俺たちはいろんなところで、一生懸命に生きてる人間たちを見させてもらってる。つまり、『生の演技』を見させてもらっているんだ。そんな貴重な演技の授業料をケチるやつがどこにいるんだ!」とカミナリを落とした。マネージャーはまた、知人が借金の申し込みに来た際、勝が白紙の委任状にサインして京都の豪邸を失うはめになったことも明かしている。他にも、勝プロダクション倒産直後九州朝日放送の社長から「勝とスティービー・ワンダーの対談をやりたい」という依頼があり、マネージャーが「うちは倒産したんですけど知ってますか」と聞いたら「御社の倒産は知っていますが、勝さんの芸が倒産したわけではありませんよね」という返答があったことも、マネージャーは後年伝えている[75][76]

舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役を演じた際、あまりの填(はま)りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次が飛んだ。 また、舞台『東男京女』では、ポスターで共演した妻の玉緒に馬乗りにされ、実際の芝居の中でも馬乗りにされる場面があるが、これは勝のアイデアであり、苦労させられた勝に逆襲するようで観客にウケていたと玉緒は語っている。

石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大喧嘩になった時には、頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにしていたという。裕次郎の葬儀では、友人代表として弔辞を読んだ[77]

1990年、麻薬所持で逮捕されたため、5億円もの費用をかけ制作したキリンビール「ラ党の人々」のCM(つかこうへい演出で1年予定だった)がたった1日で放送打ち切りとなり、CMの制作会社から損害賠償請求の民事訴訟を起こされた。

上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年4月には兄の若山富三郎が死去、納骨式の時にカメラの前で遺骨を食べ、涙を流してその死を悼んだ。さらには1996年2月、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。勝は父が亡くなる数日前から添い寝をし、施主を務めた納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ(骨噛み)、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、肉親への強い愛情を改めて印象付けた。 妻の中村玉緒について「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒は直接は聞き取っておらず「生きている時に言ってくれれば…」と語っている。妻想いを代表するエピソードとして、中村玉緒が風邪で倒れた際の話がある。高熱で苦しむ玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな渡哲也の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『くちなしの花』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている[78][79]

晩年、デニス・ホッパーとの親交は広く知られており、日本の映画祭などで同席することもあった。同じ「破滅型の俳優」として、ホッパーは非常に親近感を持っていた。

勝の臨終間際の前には、ちょうど巨大な台風が接近しており、台風一過と共に亡くなったという。玉緒によると、「亀岡(京都府亀岡市)にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという(朝日新聞京都、2007年12月26日)。死後、莫大な借金が残されたが、香典代わりに債権放棄した債権者もいたという。

勝ファンのクリエイターや役者たち

受賞

出演作品

デビュー『花の白虎隊』(1954年)
演技開眼の作『不知火検校』(1960年)
代表作『座頭市物語』(1962年)
座頭市千両首』(1964年)では実兄の若山富三郎との壮絶な殺陣を見せた。
戦前最高の剣豪と称された近衛十四郎と、彼が戦後最高の剣豪と認めた勝新太郎が、『座頭市血煙り街道』(1967年)で、凄まじい真剣勝負の対決を繰り広げた。

映画

シリーズ

その他

  • 花の白虎隊(1954年8月25日) - 小林八十次郎
  • お富さん(1954年11月3日) - 与三郎
  • 怪猫逢魔が辻(1954年12月29日) - 桝田屋友之助
  • 駕でくのは(1955年1月8日)
  • 花ざかり男一代(1955年2月26日)
  • 天下を狙う美少年(1955年4月8日) - 天一坊
  • 薔薇いくたびか(1955年4月24日)- 高倉明
  • 月を斬る影法師(1955年6月8日)
  • 踊り子行状記(1955年6月26日)- 武智十郎太
  • 花の二十八人眾(1955年8月9日)- 政吉
  • かんかん虫は唄う(1955年8月31日) - 清水富彦
  • 悪太郎売出す(1955年10月19日)
  • 怪盗と判官(1955年12月7日) - 鼠小僧次郎吉
  • 花の渡り鳥(1956年1月3日) - 蜩の半次
  • まらそん侍(1956年2月5日) - 海保数馬
  • 柳生連也斎 秘伝月影抄(1956年2月26日) - 鈴木綱四郎
  • 祗園の姉妹(1956年5月18日)-木村保
  • あなたも私もお年頃(1956年6月21日)
  • 怪猫五十三次(1956年7月19日) - 南三次郎
  • 花頭巾(1956年7月25日) - 久米寺舜馬
  • 折鶴七変化(1956年8月1日)
  • 続折鶴七変化(1956年8月8日)
  • 不知火奉行(1956年9月19日)- 筑紫源三郎
  • 月形半平太 花の巻/嵐の巻(1956年10月17日) - 宇津木周作
  • 続花頭巾(1956年11月7日) - 久米寺舜馬
  • 新・平家物語 静と義経(1956年11月28日) - 那須与一
  • 母白雪(1956年12月19日)- 川村竜一
  • スタジオはてんやわんや(1957年1月15日)- 勝新太郎
  • 信号は赤だ(1957年1月22日) - 相川三郎
  • 凸凹厳窟王 鬼月島の卷・海賊島の卷(1957年2月27日)
  • 大阪物語(1957年3月6日) - 市之助
  • 大江戶人気男(1957年5月8日)
  • 刃傷未遂(1957年5月13日)
  • 二十九人の喧嘩狀(1957年6月4日)- 安
  • 怪猫夜泣き沼英語版(1957年6月18日) - 小森一馬
  • 三日月秘文(1957年7月21日)- 三鬼与一郎
  • 森の石松(1957年9月3日)- 石松
  • 不知火頭巾(1957年11月17日)
  • 清水港喧嘩旅(1957年12月8日)- 三五郎
  • 遊俠五人男(1958年1月15日) - 徳次郎
  • おけさ鴉(1958年1月22日)
  • 陽気な仲間(1958年3月18日) - 菊太郎
  • ふり袖纏(1958年3月25日)- 小頭音松
  • 忠臣蔵(1958年4月1日) - 赤垣源蔵
  • 風来坊一番勝負(1958年5月19日)
  • 怪猫呪いの壁英語版(1958年6月15日)- 竹内喬之助
  • 東海道の野郎ども(1958年8月26日)- 鼻唄の半次
  • 花の遊俠伝(1958年8月31日)
  • 日蓮と蒙古大襲来(1958年10月1日) - 四条金吾
  • 血文字船(1958年10月27日)
  • 弁天小僧(1958年11月29日) - 遠山景元
  • 水戸黄門漫遊記(1958年12月21日)- 捨吉
  • 天竜の鴉(1959年1月22日)
  • 情炎(1959年3月17日) - 仙枝
  • 紅あざみ(1959年5月8日)- 鷹野中納言
  • 次郎長富士(1959年6月2日)- 石松
  • 千代田城炎上 (1959年6月13日) - 安藤伊予守
  • 美貌に罪あり(1959年8月12日)- 藤川勘蔵
  • 鳴門の花嫁(1959年8月23日)
  • 町奉行日記・鉄火牡丹(1959年9月13日)- 望月小平太
  • 薄桜記(1959年11月22日) - 中山安兵衛
  • 月影兵庫・上段霞斬り(1959年12月20日)
  • 初春狸御殿(1959年12月27日) - 栗助
  • 関の弥太っぺ(1959年12月27日)- 箱田の森介 
  • 二人の武蔵(1960年1月3日) - 佐々木小次郎
  • 風雲將棋谷(1960年2月3日)
  • よさこい三度笠(1960年3月16日)
  • 大江山酒天童子(1960年4月27日) - 渡辺綱
  • 人肌呪文(1960年5月11日)
  • 続・次郎長富士(1960年6月1日)- 石松
  • 源太郎船(1960年6月15日)
  • 三人の顔役(1960年7月10日)- 高林
  • 東海道ちゃっきり娘(1960年7月31日)- 遠山金四郎
  • 不知火検校(1960年9月1日) - 杉の市
  • 元祿女大名(1960年9月9日)
  • 月の出の決鬪(1960年11月16日)
  • 花くらべ狸道中(1961年1月3日)- 新助狸
  • 小次郎燕返し(1961年1月9日)
  • 風と雲と砦(1961年2月22日) - 左近八郎
  • みだれ髪(1961年3月8日) - 愛吉
  • 飛び出した女大名(1961年4月16日)- 鯖江半太郎
  • 喧嘩冨士(1961年4月26日)- 源太・秋葉の源次
  • ドドンパ酔虎伝(1961年6月7日) - 中山安兵ヱ
  • 水戸黄門海を渡る(1961年7月12日) - 渥美格之進
  • 釈迦(1961年11月1日) - ダイバダッタ
  • お兄哥さん姐さん(1961年12月8日)- 三次郎
  • 女と三悪人(1962年1月3日)- 竜運和尚
  • 化身(1962年1月14日) - 地谷梵仙
  • 鉄砲安の生涯(1962年2月21日) - 北ヶ市安五郎
  • 三代の盃(1962年3月4日)- 政吉
  • 裁かれる越前守(1962年4月6日)
  • 仲良し音頭 日本一だよ(1962年5月13日) - 勝新太郎
  • 鯨神(1962年7月15日) - 紀州
  • 長脇差忠臣蔵(1962年8月12日) - 前田山英五郎
  • 秦・始皇帝(1962年11月1日) - 始皇帝
  • 雪之丞変化(1963年1月13日) - 島抜け法師
  • 破れ傘長庵(1963年2月7日)- 長蔵
  • 雑兵物語(1963年7月13日) - 茂平
  • 乞食大将(1964年11月28日) - 後藤又兵衛
  • 幸せなら手をたたこう(1964年12月29日) - 特別出演
  • 無法松の一生(1965年7月14日) - 富島松五郎
  • 泥棒番付 (1966年2月26日)- 佐渡八
  • にせ刑事(1967年4月29日) - 千田寅松
  • とむらい師たち(1968年4月6日) - ガンめん
  • 燃えつきた地図(1968年6月1日) - 男(探偵)
  • 手錠無用(1969年4月5日) - 香車弾五郎
  • 関東おんな悪名 (1969年5月1日) - 荒巻義助
  • 鬼の棲む館(1969年5月31日) - 無明の太郎
  • 人斬り(1969年8月9日) - 岡田以蔵
  • 尻啖え孫市(1969年9月13日) - 織田信長
  • 玄海遊侠伝 破れかぶれ (1970年2月21日)- 吉田磯吉
  • 富士山頂(1970年2月28日) - 村上朝吉
  • 待ち伏せ(1970年3月21日) - 玄哲
  • あぶく銭(1970年4月18日) - 大寺松五郎(ヒゲ松)
  • やくざ絶唱(1970年7月11日) - 立松実
  • 喧嘩屋一代どでかい奴(1970年11月14日) - 青木吾朗
  • 男一匹ガキ大将(1971年3月6日) - 坊谷津光五郎
  • 狐のくれた赤ん坊(1971年5月26日) - 張り子の寅八
  • 顔役(1971年8月12日) - 立花良太 ※製作、監督、脚本も担当
  • いのち・ぼうにふろう(1971年9月11日) - 男
  • 王将(1973年5月19日) - 坂田三吉
  • 海軍横須賀刑務所(1973年11月17日) - 志村兼次郎
  • 無宿(1974年10月9日) - 穴吹錠吉
  • 迷走地図(1983年10月22日) - 寺西正毅
  • 帝都物語(1988年1月30日) - 渋沢栄一
  • 孔雀王アシュラ伝説(1990年2月3日) - 慈空
  • 浪人街(1990年8月18日) - 赤牛弥五右衛門

テレビドラマ

舞台

  • (勝新太郎・月丘夢路・藤山寛美初出演)旅のかげろう、三味線やくざ、森の石松、上州土産百両首(1960年10月2日 - 29日、大阪・新歌舞伎座)
  • 殺し屋一代、女夫渡り鳥、因果小僧六之助、元禄ドロンパ屋敷(1961年8月2日 - 29日、大阪・新歌舞伎座)
  • (勝新太郎11月特別公演)望海亭、別れ囃子、悪名、マダム專科、座頭市物語、雲の別れ路(1962年11月2日 - 26日、大阪・新歌舞伎座)
  • (勝新太郎5月特別公演)流転めおと船、座頭市喧嘩囃子、極付森の石松、不知火檢校(1965年5月2日 - 27日、大阪・新歌舞伎座)
  • (勝新太郎・朝丘雪路特別公演)風流深川唄、座頭市物語(1968年9月1日 - 25日、名古屋・御園座)
  • 流転めおと船、座頭市喧嘩囃子、森の石松、不知火檢校(1970年5月)
  • (勝新太郎 東京初出演 九月特別公演)好色の草紙、座頭市喧嘩ばやし、風流深川唄、座頭市物語(1972年9月1日 - 25日、東京・明治座)
  • (秋の演劇祭)播磨とお菊、一本刀土俵入、三味線一代(1975年10月、東京・明治座)
  • (勝新太郎 秋の演劇祭)眠狂四郎無頼控、三味線やくざ、雲の別れ路(1976年10月、東京・明治座)
  • (十月公演秋の演劇祭)座頭市物語、鶴八鶴次郎、因果小僧六之助(1978年10月1日 - 28日、東京・明治座)
  • (勝新太郎六月特別公演)朦朧車夫、水の流れ、新座頭市物語 糸ぐるま、新座頭市物語 市の耳に子守唄(1979年6月1日 - 26日、東京・明治座)
  • (松竹錦秋特別公演)三味線やくざ、新座頭市物語 糸ぐるま
  • (勝新太郎特別公演)新座頭市物語 糸ぐるま、ビッグショー(1984年3月2日 - 25日、大阪・新歌舞伎座)
  • 不知火検校(1994年5月10日 - 6月12日、銀座セゾン劇場)
  • (勝新太郎特別公演)夫婦善哉 東男京女(1996年、大阪・新歌舞伎座)

バラエティ

CM

  • 大塚製薬 - ウメビタ
  • 武田薬品工業 - フローミンエース
  • 麒麟麦酒 - ラ党の人々。(1990年)※前年、「キリンビール」より改称した主力商品「キリンラガービール」の宣伝を目的に、成人若年層の「ビール離れ」「ドラマ離れ」「CM離れ」に歯止めをかけるのを目標に、1年間毎日新作を放送するドラマ仕立てのCMとして制作された。作・演出につかこうへい、キャストに勝(父親)、松坂慶子(後妻)、安藤輝彦[注釈 4](長男)、手塚理美(長女)、国広富之(長女の夫)、富田靖子(二女)、藤井尚之(二女の夫)を起用。大々的にキャンペーンも行われたが、オンエアー初日に勝が麻薬所持容疑で逮捕されたため、わずか1日で放送中止[88][89]

プロデュース

監督作品

映画

テレビドラマ

音楽

シングル

さらに見る 発売日, 規格品番 ...
発売日 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
テイチクレコード
1955年9月 BL-5003 A かんかん蟲は唄う[注釈 5] 萩原四朗 大久保徳二郎
B 花の桟橋 大高ひさを
1955年11月 BL-5010 A 役者道中 萩原四朗
B 峠越すのは
1956年1月 A 次郎吉笠
B おもかげ峠[注釈 6]
1956年 C-102 A 街の影法師 前田よしえ 大久保徳二郎
B 今宵かぎりのボレロ[注釈 7] 大高ひさを 上原賢六
1956年 C-104 A 静かな雨のロマンス 大久保徳二郎
B 青いドレスの女
1956年5月 A 青いドレスの女
B 静かな雨のブルース
C-3958 A 三ン下月夜唄
B お別れかいな[注釈 8]
1956年5月 C-4018 A 元気でいろよ達者でね 大高ひさを 上条たけし 宮脇春夫
B 上海から来た男 清水みのる 大久保徳二郎
1956年11月 C-4036 A アドマン・ブルース
B 元気でいろよ達者でね 大高ひさを 上条たけし 宮脇春夫
1957年 A-2737 A 春雨じゃ濡れて行こう
B よみ売り三味線
1957年12月 A-2927 A おとぼけ仁義[注釈 9]
B 追っかけ笠[注釈 10]
1958年8月 C-4203 A 東海道の野郎ども[注釈 11]
B 惚れたのヨ[注釈 12]
東芝音楽工業
JP-1120 A これが未練という奴か
B 男の泣き場所
JP-1126 A 深夜の銀座裏
B 恋なんか御免だ
JP-1199 A 今夜はわかった 藤間屮雄 増田幸造
B だからお前が可愛いのさ 大沢浄二
JP-1339 A 今宵限りの三度笠
B 夢でござんす
1964年11月 TP-1001 A ど根性一代[注釈 13] 勝新太郎

十二村哲

大久保徳二郎
B 男の人生[注釈 14] 島田磬也
大映レコード
1967年8月 D-1 A 座頭市[注釈 15] 川内康範 曽根幸明
B 座頭市ひとり旅[注釈 15]
1967年11月 D-9 A あき子
B あれっきり
1968年3月 D-20 A 恋は気まま 水島哲
B いつかどこかで 曽根幸明 池田孝
1968年9月 D-57 A 座頭市子守唄[注釈 16] 川内康範 曽根幸明
B どんとやれ 曽根幸明 池田孝
1968年11月 D-62 A シーサイド横浜 西川ひとみ
B さよならしようぜ 大給櫻子 池田孝
1968年12月 D-66 A 悪名(河内音頭)[注釈 17] 鉄砲光三郎
B 悪名のテーマ(セリフ入り)
1969年6月 D-86 A ごめんね坊や 水島哲 曽根幸明
B 涙はあれに 池田孝
1970年5月 D-108 A いつかどこかで 水島哲 曽根幸明
B Sunny = サニー Bobby Hebb

訳:曽根幸明

Bobby Hebb 池田孝
1970年8月 G-1 A 座頭市の唄 川内康範 曽根幸明
B 座頭市子守唄 いわせひろし 曽根幸明 池田孝
1970年11月 G-4 A 夜と恋の終り 川島朗
B おまえは何処に 水島哲
1971年5月 G-22 A いつかどこかで 曽根幸明
B 涙はおれに 曽根幸明 池田孝
日本コロムビア
1972年4月 SAS-1615 A 兵隊やくざ 石本美由起 山路進一
B 男と男 美沢香 村井邦彦 馬飼野俊一
ユニオンレコード
1973年4月 US-778 A 橋ぐれる 小池一夫 猪俣公章 池多孝春
B 別れ手錠
東芝EMI
1973年 TP-2954 A 孤独におわれて[注釈 18] 安井かずみ 冨田勲
B ひとの出逢い 有馬三恵子 竜崎孝路
1974年 TP-20055 A おてんとさん[注釈 19] 阿里あさみ 冨田勲
B 座頭市ブルース[注釈 20] 小谷充
ビクター音楽産業
1977年 SV-6258 A 座頭市子守唄[注釈 21] いわせひろし 曽根幸明
B いつかどこかで 水島哲 曽根幸明 馬飼野俊一
ワーナー・パイオニア
L-1138P A さすらいの旅 山口あかり 平尾昌晃 竜崎孝路
B 波止場町・ふたり町 ちあき哲也
クラウンレコード
1980年 CWA-21 A にごり水 山田孝雄 叶弦大 伊藤雪彦
B 男心
日本フォノグラム
1982年 7PL-75 A 夜はくりかえす 岩谷時子 三木たかし 田辺信一
B Love You Again 荒木とよひさ 三木たかし
1982年 7PL-78 A 浮遊の夏 島武実 宇崎竜童 若草恵
B ぬくもり 荒木とよひさ 三木たかし
センチュリーレコードポニー・キャニオン
1994年5月20日 1 泣くなよ 補:武藤けんじ 曽根幸明
2 ごめんね坊や 水島哲
徳間ジャパンコミュニケーションズ
2015年11月3日 TJKA-10005 1 Sunny = サニー
2 Summer Time = サマー・タイム
閉じる

アルバム

  • 夜を歌う(大映レコード)※現行CDでは、8曲のボーナストラックが追加され、徳間ジャパンより発売されている。
  • 人生劇場 勝新太郎・古賀メロディーを唄う(1970年、日本コロムビア
  • 座頭市子守唄(1977年9月25日、ビクター音楽産業)※未CD化
  • THE MAN NEVER GIVE UP(1982年、日本フォノグラム
  • 遊びばなし うたとはなしと三味線と(1995年、Sony Records)
  • 歌いまくる勝新太郎(1997年、Pヴァイン)大映レコード時代の編集盤
  • もういちど、遊びばなし(1998年、Sony Records)
  • 歌いまくる大映スター(大映レコード)
    • 2007年に紙ジャケット仕様でPヴァインより再発。1968年の大映レコードのイベントでの模様を収録したライブ盤で、勝新太郎も参加。『座頭市』、『シーサイド横浜』、『座頭市子守唄』の、このアルバムでしか聴けないライヴ・バージョンが収録されている。

著作

  • プレイボーイ特別編集 写真集「勝vs美枝子」(集英社、1980年)
  • 『俺・勝新太郎 劇薬の書』(廣済堂出版、1992年/廣済堂文庫、1998年、改訂版2008年)- 新版解説吉田豪
  • 『裸舞(Love) - 三浦綺音写真集』撮影(ワニブックス、1994年)
  • 『泥水のみのみ浮き沈み―勝新太郎対談集』(文藝春秋、1994年/文春文庫、2017年) - 8名との対談

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI