斎藤輝子
斎藤茂吉の妻 (1895-1984)
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生涯
1895年12月11日に斎藤紀一郎(斎藤紀一)・ひさ夫妻の次女として東京浅草東三筋町に生まれる。戸籍名「てる子」であるが、「輝子」を多用した[2]。姉で紀一の長女である「いく子」が3歳で死去したため、輝子が斎藤家を継ぐこととされた。なお、父紀一は大病院の経営者となっており、自宅には乳母や女中、下働きの書生らがいるなど何不自由なく育った。
1896年(明治29年)8月、守谷茂吉(斎藤茂吉)が上京し、斎藤紀一宅に寄寓した。なお、茂吉は9月11日に東京府開成尋常中学校に斎藤姓で編入学した。茂吉は満14歳、輝子は満0歳。
1905年(明治38年)7月1日、茂吉が斎藤紀一の婿養子として入籍し、茂吉と内縁関係となる。茂吉は満23歳、輝子は満9歳。
1913年(大正2年)に女子学習院を卒業。なお、当時の女子学習院は皇族や華族出身者が半数近くを占めるお嬢様学校であり、クラスメートには近衛千代子、二荒拡子、徳川千枝子などがいる。入学時は乃木希典大将が院長であった。輝子は人力車で通学することが多かった。また、この頃父紀一が出羽ヶ嶽文治郎の面倒を見始めた。
1914年(大正3年)4月、満19歳で斎藤茂吉と正式に結婚する。なお、青山脳病院珊瑚室に約20人が集まり内輪での結婚式とした。(※婚姻届の提出を失念しており、大正5年3月の長男茂太の生誕時に提出)。しかし、結婚直後から不和が続く。8月20日、茂吉と三浦半島へ行く。三崎などに遊ぶ。
1915年(大正4年)8月、茂吉と茨城を旅する。
茂吉との間に4子をもうける(大正5年に茂太・大正14年に百子・昭和2年に宗吉・昭和4年に晶子)。
1916年(大正5年)3月21日、長男茂太を出産する。
1917年(大正6年)10月、茂吉が単身箱根五段の温泉宿に赴き滞在し、後に輝子も訪れた。
1918年(大正7年)6月、長崎に移り住む(前年暮れより茂吉は長崎医学専門学校に教授として赴任していた)。同年10月帰京した。
1919年(大正8年)1月、再度茂吉から長崎に呼び戻される。同年5月、茂吉と喧嘩し帰京。なお、その後仲直りし、輝子は東京と長崎を行ったり来たりの生活をする。
1920年(大正9年)12月30日、茂吉と南九州の旅に発つ。熊本に泊まる。
1921年(大正10年)9月6日、茂吉が長崎から帰京する。なお、同年11月1日に茂吉は海外留学のため神戸港を出港し、11月3日門司港を出帆、フランスへと向かった。茂吉は、1921年12月にベルリンに移り、1922年1月からウイーン大学で、1923年7月からミュンヘン大学で学んだ。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。紀一の病院で、赤レンガの塀が道路に倒れ、屋根瓦は全て落ちた。茂吉は海外留学していたため、留守を預かる責任者は27歳の輝子だった。市中に暴徒も現れるなか、暗闇の病院内を一人で巡回した。
1924年(大正13年)7月、輝子は「私もヨーロッパに渡りたい」と自ら希望し、若い女性が一人で海外に行くなど許されなかった時代に両親を説得して渡欧。7月23日、留学中の茂吉とパリで合流し、欧州各地を遊歴した。イギリス・オランダ・スイス・イタリアなどを巡り、10月パリに戻る。茂吉とともに年末に船に乗り、1925年1月に神戸港に到着、帰国となった。なお、帰国途中の12月28日、経営する青山脳病院が全焼した。
1925年(大正14年)2月23日、長女百子を出産する。
輝子は、演劇会や音楽会、映画などに出かけ、夜遅くに帰宅することも多く、父紀一や茂吉からたびたび叱責された。
1927年(昭和2年)4月27日、父紀一に代わり、茂吉が青山脳病院院長となる。5月1日、二男宗吉(北杜夫)を出産する[3]。
1928年(昭和3年)11月17日、父斎藤紀一が死去。
1933年(昭和8年)11月8日、銀座ダンスホール事件に関連して新聞に輝子らのことが掲載された。以後約12年間、茂吉と別居生活を送ることとなる。輝子は弟である斎藤西洋の家に居候した。また、輝子は女子学習院の同窓会組織である常磐会から除名された。
1934年(昭和9年)に茂吉は永井ふさ子と出会い仲を深めるが、輝子と離婚はしなかった。
1945年(昭和20年)まで茂吉と別居生活を送っていたが、3月29日に輝子が帰る。12年に及ぶ別居生活が解消される。6月10日から茂吉の疎開先(山形県南村山郡堀田村金瓶)を次女晶子とともに訪れ、一緒に生活した。
1946年(昭和21年)2月12日、疎開先の堀田村から帰京し茂太と合流(茂吉は1月30日に金瓶から大石田町に移り住んでいた)。4月28日、茂一(茂太長男)が生まれる。9月に世田谷区代田に自宅を購入した。昭和20年5月25日の東京空襲で全焼した自宅や青山の病院の復興に尽力した。
1947年(昭和22年)11月3日、茂吉が大石田から帰京し、世田谷区代田の自宅に住んだ。
1950年(昭和25年)10月、新宿区大京町に新築の家と病院が完成し移り住んだ。11月に茂吉も新居に移った。
1951年(昭和26年)7月初旬、破傷風にかかる。同年11月3日に茂吉が文化勲章を受章し、茂吉と茂太とともに皇居を訪れた。
1953年(昭和28年)2月25日、夫茂吉が死去。
1960年(昭和35年)9月に中近東、イタリア、ドイツ、オランダ、イギリス、フランスに行き、北極回りで帰国した。なお、海外渡航は自由化されていなかったため、「外国の精神病院の視察をする」という名目で渡航承諾を得て、ヨーロッパの美術館巡りなどを楽しんだ。
79歳で南極旅行の最年長記録に並んだ[4]ほか、エベレスト登山(標高4300m付近まで)など極地を含む世界各地を遊歴。海外旅行は108か国におよび、旅行家とも言われた。85歳でジンバブエに訪れている。
1984年(昭和59年)12月16日に死去した。享年89歳。
エピソード
- お嬢様育ちだが、他の令嬢と異なり、あやとりやお手玉などは好まず、馬に乗ったり、かけっこをしたり、水泳をする快活な少女だった[5]。
- 1905年(明治38年)に茂吉が斎藤家に入籍した当時を晩年に振り返った際、「あまり覚えてませんね。婚約したのはまだ九歳でしたから。お父様が良いということに逆らうことはできませんでしたよ、昔でしたから。茂吉を高く評価していて、ご自分の後を継がせようと考えていたのでしょう」と発言している[5]。
- 茂吉は1910年(明治43年)に輝子をモデルとした「をさな妻」と題した歌11首を詠み、歌集「赤光」に収めている。
- 短歌の創作に苦悶する茂吉の、その異様な姿に辟易した輝子は茂吉と衝突し、茂吉は輝子を殴った。茂吉は日記で「玄関ガアイテイルノデ注意ヲスルト、輝子ガ執拗ニ反対スルノデ頭ヲ一ツナグル」「今朝モイライラシテ輝子ノ頭ヲ一ツナグッタ」などと記している。親にもぶたれたことのないお嬢様の輝子は茂吉の暴力が大変耐え難かったが、茂吉の才能を評価していた父紀一は輝子に、「(茂吉は)変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたと言われている。
- 結婚直後の1914年(大正3年)8月20日から9月上旬にかけて、茂吉とともに神奈川県長井村に滞在したが、結婚直後からの不和を解決する目的があったとされる。茂吉は平福百穂に宛て「とうとう輝子つれてここにまいり候。行商人などの宿りこむ処なり。交合しようと存じたれど未だ出来ず」「その後喧嘩せず、具合よろしきやうに候」と書き送った[6]。
- 田舎出身の茂吉と大病院院長のお嬢様という輝子を対比するエピソードとして、茂吉が長崎滞在時、茂吉は勤めから帰ると「丈の短いツンツルテンの袴をはいて、平気で街中を闊歩。足袋のコハゼのかかっていないのを見て、町の小娘が笑うこともあった」のに対し、輝子は「美しい長振袖。厚いフェルト草履など、長崎の者の眼には驚くほど華美に映えていた。とされている。また、ふんどし姿でいるような茂吉を理解できなかった。
- 晩年の輝子が茂太とテレビ出演した際に、関東大震災の話が出ると「茂太はピーピー泣いてばかりいたんですよ。弱いったらありゃしない」と逸話を暴露した。
- テレビ番組『徹子の部屋』には3回出演している。なお、輝子の好きな人物は黒柳徹子と兼高かおるだったと孫の斎藤由香は語っている。
- 豪快な生き方から「快妻オバサマ」「猛女」と呼ばれた[4]。