日比谷健次郎
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日比谷 健次郎(ひびや けんじろう、天保7年(1836年) - 明治19年(1886年)1月15日)または日比谷 健治郎は、幕末の武蔵足立の草莽の郷士。諱名は貞尚。家紋は丸に違い鷹の羽。北辰一刀流の免許皆伝。明治10年(1877年)に、加藤翠溪と共に、日本で最初の和独辞書『和獨對訳字林(和独対訳字林)』を出版した。
戸籍上の表記は「健次郎」であり、「健治郎」の表記は家系図や自筆のサインなどに見られる。
公式ホームページが2022年4月に開設された。
天保7年(1836年)、武蔵国足立郡の幕領(幕府直轄)淵江領[注釈 1] 小右衛門新田[注釈 2](現在の東京都足立区中央本町)に、日比谷多津(日比谷大治郎五女)と養子佐吉との間に長男として生まれる。明治19年(1886年)1月没。福澤諭吉と同世代。
日比谷家は徳川家康の江戸入府以前からの郷士であり、正徳3年(1713年)の「小右衛門大明神縁起」によれば、元和2年(1616年)に日比谷小左衛門が渡辺小右衛門らと共に小右衛門新田の開発に当たっている[1][2]。
健次郎より5代前の勘十郎家尚の時代に分家し、屋号を山大(やまだい)と称した。淵江領の灌漑は享保以降、見沼代用水東縁用水路の恩恵に与っていた。宝暦8年(1758年)に、この末端の用悪水堀(現在の中央本町の東端を通っていた)の浚渫を巡って隣接する村同士で出入りがあったという[3]。その翌年、健次郎より4代前の次郎右衛門貞教が、淵江領小右衛門新田の惣代名主となり、以後代々、幕府の行政組織の一端を担う。日比谷家代々の墓所は足立区島根の安穏寺にある[4]。
日比谷健次郎の家に寄食していた仙台藩の易学者宍戸頼母[注釈 3]が、明治4年(1871年)に描いた日比谷家の図面(家相図)が残されている。南北約120メートル、東西約80メートル、三方が堀に囲まれ、南側の壁には矢狭間が描かれている。戦国の郷士の館の雰囲気を残している。
剣豪・文武両道
世の中が騒然となる幕末に、健次郎は安政3年12月15日(1957年1月10日)に20歳(数え歳)で北辰一刀流の免許皆伝となった。免許状が残されている[5]。武術英名録 の「ひ」の部には土方歳三と並んで日比谷健二(次)郎の名前がある。屋敷内部に剣道場を有し、多くの弟子がいた。郷士の家として、幕末には、鉄砲、刀、刺又などの武具があった。健次郎は慶應4年(1868年)の上野の彰義隊の戦いのおりには、綾瀬に敗走してきた近藤勇や土方歳三に会いに行ったと、伝聞として伝わっている。漢籍教養の豊な人でもあり、『漢書評林』などの本を手元に置き書画を愛好した。嘉永の頃には、谷文晁の弟子の船津文淵が逗留し、琳派様式の小襖絵を残している[6]。
日比谷家伝来の雛人形
日比谷家伝来の雛人形「古今雛(江戸製雛人形)」は東京国立博物館にて、2018年2月27日より3月18日まで展示される[7][8]。これは、日比谷健次郎が安政7年(1860)に、長女「しん」の初節句のためにあつらえたものである。奇しくも,井伊大老が江戸城での節句のために登城中に,桜田門外で襲撃された、その節句である。当時、商品として売られていた雛人形には、大きさに制限(高さ 8寸)があったが、それよりかなり大きな特注品である。作者は不明ではあるが、当時、流通していた雛人形とは別の風格を有する。
江戸製であること、一人の作者による大型の人形一式が伝えられていること、箱書きに「安政七年 春三月」とあり、制作年代がわかること、誰のために誂えられたものかわかることから、美術的評価とともに、歴史学や文化史の上からも貴重な史料と評価することができる[9]。
地域のために
日比谷健次郎は儒教の精神に則り、地域社会への貢献をしている。信州牧村出身の牧野隆幸は、嘉永元年(1848年)に江戸に出て漢学を修めた。安政3年に二郷半領道庭の岡田忠右衛門家に3年留まり、その後、安政6年(1859年)に小右衛門新田の健次郎宅に1年、さらに、萬延元年(1860年)からは、花又村(現在の足立区花畑)にある健次郎の父佐吉の実家である鈴木重兵衛家の世話で私塾を開き、25年にわたって500人の子弟に教育を行った。また、その娘久真も優れた人で、漢学、洋学、数学、裁縫など、牧野隆幸が忙しいときは、代わって教えたという。明治18年(1885年)8月27日に没した牧野隆幸の遺徳を偲ぶ石碑が、教え子たちにより同年11月27日に、花畑の実性寺に建てられている。撰文は日比谷健次郎による。[10]、[11]。
明治13年(1880年)6月に日比谷健次郎の義父加藤翠渓と娘の日比谷晁(健次郎の妻)の2名は、戸ヶ崎の渡し(北葛飾郡戸ヶ崎村と南埼玉郡大瀬村との間の古利根川)に架橋することを県に提案し、私費を投じてこれを行った。竣工時に、加藤家と加藤翠渓の次男・佐藤乾信が養子に入っている対岸の佐藤家とに因んで「藤橋」と名付けられた[12]。河川改修に伴い古利根川の蛇行部は埋め立てられ、直線化された中川となり藤橋は廃された。現在は潮止橋にその機能が移っている。『三郷市史』では、橋の完成によって大きな恩恵を受けるわけでもない、東京府下南足立郡小右衛門新田の日比谷晁が、この橋の建設にどのような関わりをもったのか不明であると指摘している。当時の名主たちのノブレス・オブリージュと言えよう。