日清戦争凱旋碑
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歴史
御幸通りは、1885年(明治18年)明治天皇が広島に行幸した際に、広島からの出発地点となった宇品港(現広島港)へ向かう通り道となったことから、御幸橋とともにその名がついた[7]。当時はこの通りが宇品のメインロードであり、終点である南端には御幸松が植えられた。
1888年(明治21年)広島を拠点に第5師団発足。1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると、第5師団は第3師団とともに第1軍として先鋒となり[3]、宇品港は兵站基地となり、御幸通りを多くの兵士が通って戦地へと向かった。
1895年(明治28年)日清戦争に勝利すると、全国各地にそれを祝って戦争記念施設である記念碑・凱旋門・凱旋碑・忠魂碑が造られた[3]。広島でも第5師団帰還を盛大に祝っており、御幸通りに仮設ではあるが凱旋門が作られ[1]、西練兵場(現中区基町の広島城南側、旧広島市民球場から広島県庁舎一帯)の片隅には砲弾形状の全高約20メートル規模の「日清戦勝記念碑」が造られた[3]。この凱旋碑もこの時に造られ、費用は中国5県から集まった義援金を充てた[8]。
1896年(明治29年)軍・官・民の寄付により「日清戦争凱旋碑」が竣工された[9]。名称は「出雲石見隠岐備中備後安芸周防長門八カ国連合凱旋碑」とする資料もある[注釈 3]。建築費4,988円72銭4厘[10]。この地が選ばれた理由は、ここが御幸通りを左折し御幸橋を渡り広島大本営や第5師団司令部のある市中心部へ続く北西方面への道と、御幸通りを直進し明治天皇にゆかりのある比治山から東京を起点とする鉄道網の西端(当時)であった広島駅へと続く北方向への道の分岐点にあたり[6]、建物はなく見通しの利く場所だったからである[9]。また、このころは比治山通りと御幸通りの分岐点でもあった[11]。
太平洋戦争中、金属類回収令により市内の公共施設の金属部品が次々と外されたものの、碑の頂部の金属像は保たれた。
1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地からの距離約2.5キロメートルに位置しながら、倒壊はしなかった。ちなみに、西練兵場の記念碑は爆心に近かった[12]こともあり全壊[3]している。
1947年(昭和22年)進駐軍からの糾弾を恐れ[要出典]、「凱旋碑」と書かれていた部分をセメントで塗りつぶし「平和塔」に刻み変えられた[1][13][注釈 4]。銘板の変更がなぜ、誰によって行われたかは不明[17]。
- 1930年(昭和5年)ごろの広島市地図。右下が宇品で御幸通および御幸橋が確認できる。凱旋碑が建てられた場所は、御幸橋東詰から伸びる2つの道路と御幸通で作られる三角形の下頂点付近。
交通
- 広島電鉄宇品線
- 皆実町六丁目停留場下車、徒歩約3分
- 広大附属学校前停留場下車、徒歩約3分
脚注
参考資料
本文の典拠。主な執筆者名の順。
- 書籍
- 薄田太郎 著「宇品町界わい」、薄田純一郎 編『がんす横丁』 続々、たくみ出版、広島、1973年、103-117頁。doi:10.11501/9572792。 NCID BA47641829。題名は第3巻『がんす夜話』とも。コマ番号0056.jp2-、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。
- 西尾林太郎「碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争 ―新たな教材と資料を求めて―」(PDF)『現代社会研究科研究報告』第1巻、愛知淑徳大学、2006年3月、71頁-88頁、ISSN 1881-0373、NAID 120005038053、2014年5月12日閲覧。
- 小冊子
- うじな通検定実行委員会(編)『うじな通になろう』[平成22年度版]、広島市宇品公民館出版。
- こむねっと ひろしま. “うじな通になろう - 学習サイト”. 広島市. 2012年1月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月16日閲覧。 登録とログインが必要。
- ウェブサイト
- “平和塔/旧日清戦争凱旋碑”. 広島の建築 arch-hiroshima (2006年5月7日). 2021年12月16日閲覧。最終更新2016年1月10日。
- “20. 日清戦争凱旋碑”. ヒロシマの今から過去を見て回る会. 2011年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月16日閲覧。碑の写真を掲載。
- 藤井重一(撮影) (1925年9月15日). “「中区大手町など」〈「[1広島市家族同伴」より〉]”. ひろしま戦前の風景. 中国放送 (RCC). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月16日閲覧。この像と別に、基町にあった「日清戦勝記念碑」(旧西練兵場)の映像を掲載。
