元和5年(1619年)4月14日、加賀藩家老今枝直恒の子として誕生した。寛永15年(1638年)、伯父(直恒の兄)岡山藩家老日置忠俊の養子となっていた兄忠隆が早世したため、岡山へ移り、代わって忠俊の養子となる。寛永16年(1639年)、忠俊の隠居により家督相続し、岡山藩家老、金川1万6000石の領主となる。
寛永17年(1640年)、藩主池田光政の養女(池田利政の娘心珠院)と結婚する。慶安5年(1652年)6月、仕置家老となる。承応3年(1654年)7月、大雨による岡山城下の洪水の被害が甚大で、復旧の資金として小判千両を藩に献金する。明暦3年(1657年)1月、明暦の大火により江戸藩邸が焼失したため、再建のため作事惣頭として江戸に赴く。延宝2年(1674年)、大凶作により飢饉が発生し、延宝3年(1675年)正月、閑谷学校の経営を任されていた津田永忠から、手習所用の米を窮民のために提供し、手習所を一時閉鎖して施粥所とすることを提言され許可した。永忠は、藩主光政の隠居後、評定所列座を辞して藩政から遠ざかっていたが、これが契機となり、延宝8年(1680年)、藩主綱政の命で、評定所列座に復帰して藩政に返り咲くこととなる。延宝5年(1677年)10月、隠居して嫡男の忠明に家督を譲る。
元禄6年4月14日没。五男の直方は忠治の兄今枝近義の養子となって今枝家を継いだ。墓所は岡山県岡山市北区御津高津の安倉山にある。