日置健太郎
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嘉永6年(1854年)、岡山藩家老(天城池田家)池田政昭の次男[2]として岡山に生まれる。のちに叔父の同藩家老日置忠尚の養子となる[2]。
明治維新後、旧臣を率いて福島県安積原野の開拓事業(国営安積開拓)への参加を志す[4]。しかし、親戚からの反対を受けたために、明治13年(1880年)に親族で絶家となっていた小松家を継ぐという形で日置家を離れ、小松健太郎を称した[4]。
明治13年(1880年)12月28日、10戸による開墾の許可を受け、対面原(現在の福島県郡山市熱海町)に入植した[4]。大規模農法や酪農経営に取り組むなど意欲的であったが経営的には続かず、明治30年(1897年)ごろには帰郷する[4]。日置家の家督は長男の尚(なお)が継いでいたが、明治33年(1900年)に健太郎が再度継承して[4]日置姓に復している。
明治31年(1898年)、岡山市内山下の旧邸宅地(現在の岡山県立図書館所在地)を提供、旧藩主池田章政の資金援助を受けて私立養忠学校を設立。明治37年(1904年)、旧領御津郡金川村(現在の岡山市御津金川)に養忠学校を移設・改組して私立金川中学校(岡山県立金川高等学校の前身)を設立し、初代校長に就任する。
明治39年(1906年)9月、祖先の功により特旨をもって男爵を授けられる[2][3]。1911年12月、娘の安子とその夫である波多野烏峰とともにイスラム教へ入信し、イスラム名をアフマドとした[5]。
大正11年(1922年)5月8日没[2]。