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早歌

日本の中世歌謡 From Wikipedia, the free encyclopedia

早歌(そうか、そうが)は、鎌倉時代中期から末期にかけて成立し、室町時代まで武家を中心に歌われた日本の中世歌謡である[1][2]。後世には宴曲(えんきょく)とも呼ばれ、現爾也娑婆(げにやさば)、理里有楽(りりうら)の別称もある[1][2]。

『宴曲集』巻1(国立公文書館所蔵)

詞章は七五調を基本とする長編の韻文で、四季、恋、祝言、宗教、学芸などを題材とする[2][3]。和歌・物語・仏典・漢籍などを素材とし、ものづくし、縁語、掛詞、頭韻、対句などの表現を用いる[4][3]。

明空によって大成され、基本となる八部16巻に161曲、『外物』に12曲が伝わる[1][2][3]。正式な演唱では、調声人が一、二句を独唱したのち、助音が加わって斉唱した[1][2]。16世紀以降に衰退して伝承が絶えたが、詞章と曲節は能の謡などに受け継がれた[1][2][5]。

名称

歌われていた時代の文献には「早歌」の名称が見え、「宴曲」は江戸時代末期以降に撰集名から用いられるようになった名称である[1][2]。「宴曲」は「延曲」とも表記される[3]。

読みは「そうか」を基本とし、「そうが」とも読まれる[1][2]ほかに、「はやうた」と読む例もある[6]。名称は、やや速いテンポ、またはのびやかにきびきびとした歌い方に由来する[6][2]。

神楽歌や催馬楽にも「早歌(はやうた)」と呼ばれる歌があるが、本項の中世歌謡としての早歌とは区別される[4][2]。『梁塵秘抄口伝集』に見える「早哥」とも直接のつながりはない[2]。

歴史

成立と大成

早歌は白拍子の系統を引き、天台声明の節回しを取り入れた歌謡とされる[5]。音楽的には、催馬楽などの雅楽系歌曲や仏教講式からの影響も指摘されている[2]。また、ものづくしの表現については、白拍子の謡い物からの影響が考えられている[4]。

早歌を大成した明空は、今日の鎌倉市の極楽寺の僧とされる[7]。現存曲の大半は明空の作詞・作曲である[1][2]。

明空撰の『宴曲集』は、永仁4年(1296年)ごろから正安3年(1301年)までに成立した最初の集成である[8]。文保3年(1319年)成立の『玉林苑』までに、基本となる八部16巻が成立した[1][2][7]。

流行と衰退

当時流行した早歌は武家を中心に歌われ、公家、僧侶、猿楽の関係者にもたしなまれた[1][2]。儀式、祝宴、興宴、寺社の法楽などで演唱された[2][7]。

元亨2年(1322年)4月6日、花園天皇が藤原兼高に歌わせた記事が『花園天皇宸記』に見え、演唱記録の初見とされる[2]。『徒然草』第188段には、仏事後の酒宴に備えて法師が早歌を習ったという話が記されている[6][4]。

室町時代中期まで盛行したが、16世紀以降は急速に衰えた[2]。永正元年(1504年)3月13日に三条西実隆邸で連歌師玄清らが歌ったという『実隆公記』の記事は、衰退時期に残る演唱記録とされる[2]。

演唱

演唱の場と担い手

おもに武家・公家の宴席や儀式、寺社の法楽などで演唱された[2][7]。専門の早歌歌いが伝承する一方、公家、僧侶、猿楽関係者が余興として歌うこともあった[2]。

『異説秘抄口伝巻』は百曲以上を習得した者に伝授され、『撰要両曲巻』は百曲未満の習得者に用いられたとされる[1]。

歌唱形式

正式な演唱では、調声人が一、二句を独唱し、助音が加わって斉唱した[1][2]。調声人は扇子で膝を打って拍子を取った[2]。曲の一部だけを口ずさむこともあった[1]。

成立当初の早歌は楽器の伴奏に依存せず、声を中心に歌われたとされる[2][3]。一方で、ときに尺八や笙で音取りをした可能性も指摘されている[2]。

譜

『宴曲集』巻3の詞章。朱書や仮名などの書き入れが見られる。

冷泉家時雨亭文庫に伝わる譜本には、墨譜、朱譜、調子点が記されている[5]。『玉林苑』では、詞章の右側に節回しを示す節博士が記されている[7]。

早歌の譜本は二百冊余り伝存し、そのうち演唱者が使用した視唱本・相伝本とみられるものが三十冊前後知られている[2]。

詞章

形式と表現

詞章は七五調を基本とする[2][3]。短い曲は十数句、長い曲は百数十句からなり、漢文調や散文調を含む曲もある[2]。

詞章には、ものづくし、縁語、掛詞、頭韻、対句などが用いられる[4][3]。華美な修辞を用いる叙事的・叙景的な長文で、平曲や謡のような会話体は用いない[2]。

題材

題材は四季、恋、祝言、道徳、宗教などにわたる[2]。

さらに見る 分類, 主な曲 ...
分類 主な曲
四季 「春」「春野遊」「夏」[2]
恋 「吹風恋」「遅々春恋」「恋路」[2]
祝言 「祝言」「嘉辰令月」[2]
道徳 「筆徳」「文字誉」[2]
宗教 「対揚」「法華」「浄土宗」[2]
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典拠

詞章は、仏典、漢籍、物語、八代集、説話、歌学などから語句や素材を取り入れている[4]。和歌・物語、『和漢朗詠集』『白氏文集』、名所旧跡の地名なども素材とされた[3]。国文学研究資料館は、『源氏物語』などの古典、仏典、漢籍が素材になったと説明している[8]。

曲集

基本の八部16巻

基本となる撰集は、『宴曲集』『宴曲抄』『真曲抄』『究百集』『拾菓集』『拾菓抄』『別紙追加曲』『玉林苑』の八部16巻である[1][2][3]。八部16巻には161曲が収められている[2][5]。

『撰要目録』には、基本16巻の曲名、編纂時期、作詞・作曲者名が記されている[2][5]。基本16巻と『撰要目録』を合わせて「宴曲十七帖」とも呼ばれる[2]。

『外物』

『宴曲外物』(国立国会図書館所蔵)

『外物』(そともの)は、基本16巻に含まれない12曲を収める[1][3]。

国立国会図書館所蔵の『宴曲外物』には、応永20年(1413年)12月13日の実阿の奥書があり、墨譜、朱書の拍子詞、振り仮名が記されている[9]。所収曲は「新浄土」「小林訣」「秋夕」「硯」「弓箭」「露曲」「霜」「声楽興」「同下」「司晨曲」「岩清水霊験」「領巾振恋」で、「小林訣」は小串範秀の作とされる[9]。

異説・替え歌と抜萃集

『異説秘抄口伝巻』と『撰要両曲巻』には、それぞれ48首の替え歌が収められる[1][2]。『異説秘抄口伝巻』は文保3年(1319年)、『撰要両曲巻』は元亨2年(1322年)に成立した[1]。

ほかには、名曲を抜粋した『郢曲抜萃』『宴曲十二集』も伝わる[2]。

作者と伝承者

作者・作曲者

『撰要目録』には三十数名の作者・作曲者が記されている[1][2]。明空・月江の作が大半を占める[1][3]。

明空以外の作者として、藤三品、了観漸空、洞院相国、冷泉武衛、高階基清、菅原頼範、藤原親光らが挙げられる[2]。後世の研究において、藤三品は藤原広範、洞院相国は洞院公守、冷泉武衛は冷泉為相に比定される[2]。

伝承者

伝承者として、明円、道阿、坂阿、口阿、宗友、高橋次郎左衛門尉富職、飯尾善左衛門為久、飯尾善右衛門、田嶋清阿、実阿らが挙げられる[2]。

坂阿は道阿から早歌を相伝し、明徳2年(1391年)から応永元年(1394年)にかけて譜本を書写した[5]。坂阿本は後に宗光が所持した[5]。宗光は大中臣元実といい、金山備中入道、明堂とも称し、足利義持・義教に早歌で仕えたとされる[5]。明応6年(1497年)の宗光の識語には、坂阿自筆本を正本とする記述がある[5]。

伝本

冷泉家時雨亭文庫本

冷泉家時雨亭文庫には、『宴曲撰要目録』、坂阿書写本、無年記本、『草歌抜書』などが伝わる[5]。『宴曲撰要目録』は、基本16巻161曲の曲名、撰集時期、作者・作曲者を記す[5]。

坂阿書写本には、明徳2年(1391年)から応永元年(1394年)にかけての奥書があり、墨譜、朱譜、調子点が記されている[5]。宗光は明応6年(1497年)に識語を記した[5]。

『玉林苑』

『玉林苑』は文保3年(1319年)2月成立で、上下2巻のうち宮内庁書陵部に下巻のみが伝わる[7]。同本は巻子装で、詞章の右側に節博士が記されている[7]。等間隔の折り跡から、もとは折帖仕立てで、一面6行書きであったことがわかる[7]。

同本には後伏見天皇の宸筆とされる古筆了雪の極札が付くが、書風から実際の書写年代は後代とされる[7]。

その他の伝本

国文学研究資料館は、『宴曲集』『宴曲抄』『玉林苑』『拾菓集』『撰要目録』『撰要両曲巻』などの早歌資料の画像を公開している[10]。国立国会図書館は『宴曲外物』を所蔵し、デジタル画像を公開している[9]。

後世への影響

詞章と曲節の面で能の謡に影響を与えたとされ[1][2][5]、世阿弥の自筆能本『江口』には「かうかふし」の注記がある[2]。

また、『閑吟集』には、早歌の曲中から抜き出した歌が8首収録されている[2]。

関連項目

脚注

参考文献

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