明安図
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清の正白旗(内モンゴル自治区、シリンゴル盟南部)に生まれた。1710年、欽天監の学生に選出された[4]。イエズス会宣教師らにより改暦が成されていたころに欽天監で働いた[7]。天文学においてはティコ・ブラーエの影響を受けた[8]。
明安図の『割圜密率捷法』は、没後に息子の明新や門人の陳際新らの定稿を経て、上梓された[8]。中国の数学の発展に大きな影響を与えた書であった。
明安図は内モンゴルにおいて無限級数を計算し、10つを超える公式を得た初の人物であった。1730年代、現代ではカタラン数として知られる数を初めて確立させた[9]。明安図や董祐誠、項名達、戴煦の作品には、ユークリッド的な比例の概念、級数の四則演算、級数の反転、二項定理など、イエズス会宣教師から伝えられた西洋の数学の跡が数多く見られる[10]。明安図による三角関数や対数関数の無限級数展開の計算は代数学的・帰納的であり、微積分を用いなかった[11]。
1737年から1742年まで、明安図は『暦象考成後編』の編纂に携わった[8]。1755, 1756年頃、乾隆帝下の清に属したジュンガル地域(後の新疆)の測量に参加した。何国宗を筆頭とし、明安図や劉統勲の活躍によって『西域図志』が完成した[12]。1762年から欽天監監正を務めた[13]。
後世
三上義夫 (1910) によれば、明安図は解析的方法の分野に関わった初の中国人である[14]。しかし、『割圜密率捷法』について陳際新の書き留めた事情の妥当性に疑いがあると述べている[15]。
ダービー大学の P. J. Larcombe は1999年に明安図に関する7本の論文を発表した。1700年初頭に無限級数を中国に持ち込み明安図に教えた宣教師ピエール・ジャルトゥーによる影響についても記載されている[14]。
2002年5月26日、北京天文台CCD小惑星観測プログラムによって発見された小惑星28242に明安図の名が命名された[16][17]。
2002年8月、明安図に因んで命名された行政区の明安図鎮で、明安図の科学的貢献に関するシンポジウムが開催された[18]。