明日香親王

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弘仁2年(811年四品弾正尹に叙任される。弘仁9年(818年親王の号を除き臣籍降下して朝臣姓を与えられたい旨を上表するも許されなかったが、なおも子女の臣籍降下を求めて許され、子女4名に久賀朝臣姓が与えられた[1]。以降これに倣って、二世王への賜姓が競って行われるようになったという[2]。弘仁12年(821年)三品に叙せられる。

天長8年(831年上野太守に任ぜられる。承和元年(834年)2月13日薨去

人物

生まれつき質朴な性格で、浮華を良しとしなかった。弘仁年間は奢侈な風潮で、王公貴人は鮮やかな衣服を非常に好んだが、明日香親王だけは夏になっても朝服を何度も洗濯して使用した。また、馬小屋の走行用のを売却して邸宅の費用を支えるなど、節約に努めたという。[2]

官歴

六国史』による。

系譜

脚注

参考文献

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