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明院良政

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明院 良政(みょういん りょうせい[1]、? - 天正2年〈1574年〉以前[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての織田信長の近臣[1]。信長の右筆で、各種の奉行も務めた[1]。

経歴

永禄2年(1559年)より、紹巴との交遊が確認できる[1]。文書における良政の初見は、信長から徳山則秀に宛てた、永禄7年(1564年)推定の6月21日付書状の副状である(『徳山文書』)[1]。永禄8年(1565年)のことか、6月10日付で佐々平太・兼松正吉が30貫文の土地を与えられているが(『兼松文書』)[2]、これを執り行ったのは滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀・村井貞勝ら信長の代表的家臣たちと良政であった[1]。このことから良政が単なる右筆でなく、信長の側近として力を持っていた様子がうかがえる[1]。

永禄11年(1568年)9月、信長は足利義昭を奉じて、美濃国から近江国攻略を経て京へと上った[3]。久野雅司は、右筆である良政は禁制や信長の文書作成のため、それに付き従ったとしている[3]。上洛途上の永禄11年(1568年)9月14日、万里小路惟房が禁中の意としてもたらした禁中警固などについての要望を、良政が信長へと取り次いだ(『経元卿御教書案』)[1]。9月26日には、足利義昭の家臣である細川藤孝とともに、信長に先んじて御所北門に赴いている(『言継卿記』)[1]。

信長の上洛後は山城国の統治に携わった[1]。永禄11年(1568年)に推定される10月9日付文書で、良政は細川藤孝・木下秀吉とともに、芝薬師阿弥陀寺へ兵士寄宿を免除している(『阿弥陀寺文書』)[1][注釈 1]。10月12日には藤孝とともに伏見荘内の百姓へ年貢や諸物成について指示し(『尊経閣文庫文書』)[1]、10月18日、信長の意に従って、秀吉とともに大心院へその院領を安堵した(『大心院文書』)[1][6]。10月21日、信長の使者として丹羽長秀と禁中へ雁を献上し(『御湯殿の上の日記』)[1]、同じ日に山科言継から大宅野村西山地頭職のことを頼まれ、信長に取り次いだ(『言継卿記』)[1]。言継は良政に対し、信長や幕府への取り成しを強く求めており、その日付けで幕府奉行人奉書と信長の朱印状が出されている[7]。

永禄11年(1568年)10月26日、信長は京から岐阜へと戻ったが[1]、良政は他の右筆と異なり[8]、京に留め置かれた[9]。『多聞院日記』によると、良政とともに京に残ったのは佐久間信盛・村井貞勝・丹羽長秀・木下秀吉で[9]、谷口克広は、軍を指揮し京の治安維持を担ったとみられる信盛・長秀・秀吉に対し、良政と貞勝は京の諸政や禁裏や幕府との連絡などを担当したと述べている[1]。

永禄12年(1569年)1月19日、良政は村井貞勝らとともに、幕府奉行人の摂津晴門や飯尾貞遥、松田頼隆から光源院について地子銭などの去り渡しを求められた[8]。3月3日、信長が公家領回復にあたり公家から手日記などを徴した際には、良政がその交渉窓口を務めた[8]。4月16日および18日、良政は木下秀吉・丹羽長秀・中川重政とともに相論を裁許し、丹波国の宇津長成に違乱停止を通達している[5][10]。

その後の良政について、小瀬甫庵著『信長記』には、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いの際、軍忠を記したとある[1]。また『言継卿記』によると、同年7月19日と23日、良政は連歌会に参加している[1]。

天正2年(1574年)12月23日、紹巴邸で明院追善の連歌興行が行われた(『大阪天満宮文庫所蔵連歌集』)[1]。良政はこの頃までに死去していたとみられる[1]。

脚注

参考文献

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