易京

古代中国の地名 From Wikipedia, the free encyclopedia

易京(えきけい[注釈 1])は、漢代から五胡十六国時代にかけて存在した古代中国の城名(地名)。現在の河北省保定市雄県の北部にあたる[1]

歴史

後漢のとき冀州河間国幽州との境に位置し、後漢末の群雄割拠に劉虞より幽州を奪って幽州に割拠した公孫瓚が、冀州で強勢を誇っていた袁紹への備えとしてこの地に堅城を築いた。易京城では屯田が実施され、穀物三百万斛を貯蓄、公孫瓚も「兵法には城楼百を攻めずとあるが、今や我が城楼は千重である。この糧を食い尽くす間に、天下の形勢は自ずと明らかになるであろう」と豪語していた[2]

建安4年(199年)、易京城に籠城した公孫瓚は次第に猜疑心を強めて臣民の心を失い、鯔のつまり瓚自ら易京に火を放って自害し果てた(易京の戦い[1][3]。袁紹の死後、その領有は袁尚曹操と移り、やがて曹丕(文帝)がを興すとその領土に属した。

建武4年(338年)、鮮卑段屈雲中国語版段遼の従弟)が幽州を攻撃したとき、刺史李孟がこの地に逃れた[4]。のち後趙石虎前燕慕輿根慕容恪らに敗れたとき、易京はその堅牢なることを憎まれて破壊された[5]

脚注

参考文献

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