易京
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後漢のとき冀州の河間国と幽州との境に位置し、後漢末の群雄割拠に劉虞より幽州を奪って幽州に割拠した公孫瓚が、冀州で強勢を誇っていた袁紹への備えとしてこの地に堅城を築いた。易京城では屯田が実施され、穀物三百万斛を貯蓄、公孫瓚も「兵法には城楼百を攻めずとあるが、今や我が城楼は千重である。この糧を食い尽くす間に、天下の形勢は自ずと明らかになるであろう」と豪語していた[2]。
建安4年(199年)、易京城に籠城した公孫瓚は次第に猜疑心を強めて臣民の心を失い、鯔のつまり瓚自ら易京に火を放って自害し果てた(易京の戦い)[1][3]。袁紹の死後、その領有は袁尚・曹操と移り、やがて曹丕(文帝)が魏を興すとその領土に属した。
建武4年(338年)、鮮卑の段屈雲(中国語版)(段遼の従弟)が幽州を攻撃したとき、刺史の李孟がこの地に逃れた[4]。のち後趙の石虎が前燕の慕輿根・慕容恪らに敗れたとき、易京はその堅牢なることを憎まれて破壊された[5]。
脚注
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注釈
出典
- 1 2 五井直弘 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「公孫瓚」の意味・わかりやすい解説』小学館、コトバンク。https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E7%93%9A-62648#:~:text=%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84%E8%A7%A3%E8%AA%AC-,%E5%85%AC%E5%AD%AB%E7%93%9A,-%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%9D%E3%82%93%E3%81%95%E3%82%93%0A%EF%BC%88%EF%BC%9F%E2%80%95199。2026年4月7日閲覧。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:為圍塹十重,於塹裡築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉,積穀三百萬斛。〈《英雄記》曰:瓚諸將家家各作高樓,樓以千計。瓚作鐵門,居樓上,屏去左右,婢妾侍側,汲上文書。〉瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜谷。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此谷,足知天下之事矣。」
- ↑ 『資治通鑑』「漢紀五十五」:瓚自計必無全,乃悉縊其姊妹、妻子,然後引火自焚。紹趣兵登台,斬之。
- ↑ 『晉書』載記第六「石季龍上」:季龍將伐遼西鮮卑段遼,募有勇力者三萬人,皆拜龍騰中郎。遼遣從弟屈雲襲幽州,刺史李孟退奔易京。
- ↑ 『晉書』載記第六「石季龍上」:初,慕容皝與段遼有隙,遣使稱籓于季龍,陳遼宜伐,請盡眾來會。及軍至令支,皝師不出,季龍將伐之。天竺佛圖澄進曰:「燕福德之國,未可加兵。」季龍作色曰:「以此攻城,何城不克?以此眾戰,誰能禦之?區區小豎,何所逃也?」太史令趙攬固諫曰:「燕城歲星所守,行師無功,必受其禍。」季龍怒,鞭之,黜為肥如長。進師攻棘城,旬餘不克。皝遣子恪帥胡騎二千,晨出挑戰,諸門皆若有師出者,四面如雲,季龍大驚,棄甲而遁。於是召趙攬復為太史令。季龍旋自令支,過易京,惡其固而毀之。