星川稚宮皇子
古墳時代の皇族
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概要
雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした[3]。こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。ところが、雄略天皇は星川皇子を皇位につけてはならないと、大連の大伴室屋と東漢掬直に遺詔した[4]。そのことが原因で、稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし、室屋らによって大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣氏は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。即位前の清寧天皇はこれを非難して、吉備上道臣が管理している山部を召し上げたという[5]。