吉備氏の乱
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雄略天皇7年、吉備上道田狭が朝廷で妻の稚媛の美貌を自慢していることを聞いた雄略天皇が、田狭が国司として任那に派遣している間に稚媛を奪ったためだと『日本書紀』巻第十四には記載されている。
朝廷は吉備田狭の子、弟君と吉備海部赤尾を討伐に向かわせ、同時に同じ朝鮮半島の百済から技術者を連れてくる任務も追加した。しかし、弟君は、現地では老女に化けた国神(くにつかみ)の言を信じ、新羅への道は遠いものと思い込んで進軍をためらい、波風にかこつけて、百済からの技術者を大嶋に滞留させたままにしておいた。すると、父親の田狭からの使者が現れ、百済の協力を得て自分に裏切るようにとすすめた。弟君はそのことを知った妻樟媛に殺された。樟媛と赤尾は大嶋へ赴き、天皇は日鷹吉士堅磐固安銭を派遣して、復命をさせた。
反乱は失敗し、田狭は行方知れずとなった[1]。