允恭天皇から顕宗天皇まで5代の天皇に大連として仕えた[6]。允恭天皇(仁徳天皇の皇子)の代、妃の衣通郎姫のために藤原部を定める。雄略天皇2年、百済の池津媛を犯した石川楯を、来目部に命じて処刑させる。同23年8月、天皇崩御に際して後事を託され、直後に起こった星川稚宮皇子の叛乱を東漢掬と共に鎮圧。清寧天皇2年には、諸国に天皇の御名代として白髪部舎人・膳夫(かしわで)・靱負(ゆげい)を置いた。武烈天皇3年天皇の詔に従い、役丁を徴発して城の形を水派邑(みまたのむら、現在の奈良県河合町か)に築いた他、信濃国にも男丁(よぼろ)を集めて城を作るようにと詔を受けている。