晋陵郡城
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早くは三国時代の呉がこの地に周630歩(870m)の城塞を築き、鉄瓮城と名づけた。東晋期には京口と呼ばれ、晋陵郡治が置かれ、城郭が増強された。永嘉の乱によって南渡を余儀なくされた東晋政権は、都城建康に至近の要衝の地である京口に最精鋭部隊からなる北府軍団を駐屯させて対北防衛の拠点とするとともに、北から移動してきた膨大な流民集団に対する首都圏の治安対策にも当てた[1]。
1984年5月、鎮江博物館は鎮江市街地東北の花山湾で、晋陵郡城の古城壁を発見した[2]。城壁は長江南岸の標高30mの丘陵上に等高線に沿って築かれているため、かなり不規則な長方形になっている[3]。東壁は700m、西壁は1400m、北壁は1400m、南壁は1200mあり、城周は4700mとなる。地表に残存する城壁の基厚は30m - 70m、残高は最高所で25mときわめて強固な版築城壁で、数万点の磚(煉瓦)が出土したことから、版築土城を磚で覆ったものであることが判明した。北府軍団の鎮所にふさわしい軍事要塞色の強い城郭で、都城建康外城とは対照的である。注目すべきは西壁部分である[4]。孫呉の鉄瓮城跡と伝えられる西北隅がそのまま取り込まれており、鉄瓮城を子城として利用した外城建造がなされたことが判明した[5]。また出土した城壁上の文字磚は104種にのぼり、「晋陵」「晋陵羅城」「花山」「羅城磚」「東廓門」「南廓門」などの文字がみられる[6]。また、唐代の潤州城がこの東側にあったらしいことは従来から予測されていたが、出土城磚中にかなり唐宋期のものが含まれ、しかもそのほとんど全てが西壁跡から集中して出土していることから、東晋晋陵郡城の西壁が唐代潤州城の東壁の一部としてそのまま再利用されたこともほぼ確実となった[7]。
城壁と城内では、漢・六朝・隋唐以後の古墓19基が発見された。その中では東晋墓が最も多い。城内の遺跡中の文化堆積層はおもに東晋南朝時代のもので、おもな遺物には磚・瓦・陶磁器・鉄器などがあるが、青磁が最も多い[6]。
脚注
参考文献
- 羅宗真『古代江南の考古学 倭の五王時代の江南世界』中村圭爾、室山留美子編訳、白帝社〈白帝社アジア史選書〉、2005年。ISBN 4-89174-724-2。
- 愛宕元『中国の城郭都市 殷周から明清まで』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2023年。ISBN 978-4-480-51208-6。