普仏戦争の海戦
From Wikipedia, the free encyclopedia

北ドイツ連邦とフランスの艦艇が行った海戦は、1870年から1871年の普仏戦争における副次的な戦いであった。準備の悪さによってフランスは、 北海の海上封鎖を通じた北ドイツ連邦の経済弱体化に失敗した。同様に、自国の兵を沿岸に上陸させる前提条件も整わなかった。
海戦が実施されたのはハヴァナ(キューバ)の近海であり、北ドイツ連邦海軍の汽走砲艦「メテオーア」がフランス海軍の通報艦「ブーヴェ」と交戦している。その戦いに決着はつかなかった。 さらに1870年8月22日、平甲板式コルヴェット「ニュンフェ」がフランスのアルマ級装甲コルヴェット及び通報艦1隻をダンツィヒ湾で襲撃した。この夜襲で双方に損害は生じなかったが、フランス艦隊は撤退している。ドイツ連邦海軍の規模はまだ小さく、出撃はわずかであったため、それらを除く海戦に大きな意義はなかった。

1870年、皇帝ナポレオン3世統治下のフランスには艦船470隻を擁する海軍があり、これを上回るのはイギリス海軍のみであった。北ドイツ連邦が保有していた艦艇の数は、その1/10をわずかに上回るのみであり、5隻の装甲フリゲートで北ドイツの海岸線を守ろうと試みた。もしフランスが海上における優勢を有効に活用できていれば、その戦争への影響は大きかったと言われている[1]。
本来、ナポレオン3世は海軍兵9,000名と予備役軍人20,000名から構成される兵団を上陸させる計画を立てていた。道路網は沿岸からかなり離れていたため、北ドイツ連邦がこれに対抗して部隊を派遣することは困難だったのである。この点はフランス側も意識していた。上陸作戦と海上からの艦砲射撃によって、少なくともプロイセン軍160,000名を拘束しようとしていたのである。他方、プロイセンはフランスの派遣軍がポンメルンを通過し、ポーランド人の蜂起を惹起するのではないかと危惧していた。海上封鎖が実施されれば北ドイツ連邦の経済は著しい損害を被り、何より重要な物資の輸入を断たれていた所であった[1]。
さらにフランスは、デンマークとの同盟を目指した。数年前にはまだ、プロイセンと交戦状態にあったこの国は50,000名の陸軍と、特筆に値する海軍を擁していた。しかしデンマークの参戦は、フランスが独力で上陸作戦を成功させなくては期待もできなかった。フランスは現実を顧みることなく、シュレースヴィヒ=ホルシュタインにおけるデンマーク人の蜂起を見込んでいた。しかし結局はイギリスとロシアの圧力に影響を受け、デンマークは中立を保っている[2]。
主要な問題は、装甲艦12隻を擁する重要なフランス地中海艦隊が1870年7月4日には、まだマルタへ派遣されていたことであった。これをせめて大西洋沿岸のブレストへ移動させるには、3週間はかかった。その理由は、艦隊と電信で連絡を取るのが部分的に困難であったこと、そして休暇を返上させて兵役義務を持つ者を召集するために時間が必要だったことである。艦隊は8月の第2週、ようやく北海に到着する見込みであった。こうしてモルトケのフランス侵攻は阻めず、10月には嵐が北海の航行を困難なものにしていた。またこの遅延には、海軍大臣が皇帝の従弟、ジェローム・ナポレオン・ボナパルトに指揮権を与えまいとあらゆる手段を講じなければいけなかったことも関係がある。その後、フランスは8月3日の決定に見られるように、万難を排して派遣軍を編成することができなかった。「フランス軍にとり、これは戦略上の災難であった」とジェフリー・ワヴロは述べている。なぜならプロイセン軍は、結果として阻まれることなくフランス国境へ急行できたからである[2]。
バルト海におけるフランスの作戦

今や「バルト戦隊」と呼ばれるようになったフランスのイギリス海峡艦隊はシェルブールに集結し、7月24日に北海に向けて北東へ出航した。ルイ・ブーエ=ウィヨメ大将の指揮下、戦隊を構成したのは装甲フリゲート「シュルヴェヤン」、「ゴロワーズ」、「ギュイエンヌ」、「フランドル」、「オーション」、装甲コルヴェット「テティス」、「ジャンヌ・ダルク」と通報艦「カサール」である。1870年8月2日、戦隊はコペンハーゲンに近いケーエ湾に到着し、本来は中立であるデンマークの好意的な容認の下、司令部を設置する[3]。
バルト戦隊と、来航中の地中海艦隊のいずれも同様に石炭不足に苦しんでいた。必要分はわずかながらデンマークや、イギリス領ヘルゴラント島から調達することが可能であったものの、大部分は数百海里も離れたダンケルクの貯蔵庫から運んで来なくてはいけなかったのである[4]。
そのためフランスの艦艇は低速で航行したり、その存在のみで北ドイツ連邦の封鎖突破船を畏縮させようと何日も停泊したりして、石炭を節約する必要があった。しかし北ドイツ連邦の船が接近しても、それは石炭を消費する無駄な追跡に繋がるだけであった。8月12日、海軍大臣から命令を受けたブーエ提督は旗艦で士官とともにキール付近への上陸に備える。しかし浅瀬や沿岸部の良好な防備を背景に、彼らには北ドイツ沿岸の全体が上陸には不適であると思われた。クルップ社の沿岸砲の射程は、フランス側の艦砲の2倍であった。相応の兵力を欠いては、上陸作戦の実施はいずれにせよ不可能だったのである[5]。
8月17日には通報艦「グリレ」が分遣隊の砲艦を伴ってヒデンゼー島、ドーンブッシュ付近でフランスの装甲フリゲート3隻と通報艦1隻に遭遇し、初の突発的な戦闘が行われている。「グリレ」は砲撃を開始した後、ヒデンゼー島に向かって後退した。フランスの艦艇は海域の浅さから追撃を断念する。損害の報告は無かった[6]。
1870年8月18日にはバルト海のドイツ領沿岸全域に対し、海上封鎖が宣言された。続いてフランスの艦艇は宣言を相応に履行し、ドイツの諸港を封鎖するべくその沿岸を哨戒する。その際、装甲フリゲート3隻と通報艦1隻から構成されるフランスの戦隊が8月22日にはダンツィヒ湾にも停泊した。ヴァイクマン大佐の指揮下、港湾を守備するべく配置されていたコルヴェット、「ニュンフェ」はこれを受けて敵戦隊に夜襲を敢行し、2回の片舷斉射を実施した。フランスの諸艦は抜錨し、応射しつつダンツィヒ湾から後退する。しかし、この砲戦は双方に損害を与えなかった[7]。このように成果を挙げることなく、バルト戦隊は9月24日にはフランスへ撤収した[8]。
北海におけるフランスの作戦
北海のフランス艦隊司令、フーリション中将にとっても、事態は同様に見込みのないものであった。彼は充分な海図さえ持っていなかったため、それをデンマークで購入しなくてはいけなかったのである。エルベ川とヴェーザー川の河口は機雷と防鎖で守られており、ドイツ人の水先案内人は勤務を拒否したので、半完成状態のヴィルヘルムスハーフェン基地を攻撃することはできなかった[9]。
フランスの「北海戦隊」は装甲フリゲート「マニャニーム」、「プロヴァンス」、「エロイーヌ」、「クーロンヌ」、「アンヴァンシブル」、「ヴァリュリューズ」、「ルヴォンシュ」、装甲コルヴェット「アタロント」、コルヴェット「シャトー・ルノー」、「コスモー」、通報艦「ルナール」と「デクレ」を伴って8月11日、北海に到着した。北海沿岸に対する海上封鎖が宣言されたのは、8月25日のことである。フランスの戦隊はほとんどの場合、イギリス領ヘルゴラント島の近海に留まった。双方ともに偵察艦を派遣していたが、8月24日にヴェーザー川の河口で装甲艦「アルミニウス」が「アタロント」と遭遇し、影響もなく終わった短時間の砲戦に及んだのみであった。
フランス海軍はほとんど陸地を攻撃できなかった。それに適した艦艇がクリミア戦争の後、退役していたか修理中であったためである。フランスは9月までしか、いずれにせよ不完全な海上封鎖を維持できなかった。冬に備えて艦隊を撤収させなくてはならなかったのである。また、各艦の兵員はフランス国内における戦略予備としても必要とされていた。9月10日、フランスへの撤退をもって北海における海上戦争は終わった[9]。しかし同海域の哨戒は引き続き実施されており、北ドイツ連邦海軍に防備の維持を強いている。
