曇柯迦羅
From Wikipedia, the free encyclopedia
家は代々裕福で梵福(ぼんぷく)[1]を修した。 曇柯迦羅は幼い時から才能に長けて聡く容貌も人並み優れていた。書物は一度読むだけでその意味を全て理解したという。 四囲陀論(しいだろん)(ヴェーダ)を善く学び、風と雲の動き、星宿、図識、運変にも通暁していた。そして自ら「世界の現象とその意味はことごとく私の心腹にある」と言っていた。
曇柯迦羅が二十五才になり、ある僧房に行くと偶然に法勝(ほうしょう)[2]の毘曇(びどん)[3]を見て、目を通してみたが全く理解できなかった。丁寧に読み返してみても混乱や困惑がさらに増すだけであった。やがて嘆息して「私は多年に渡って学問を積み、古典を探求し、様々な書物に目を通したが、再び読み返したりその意味について考えたりすることはなかった、しかしこの仏教書は私の理解の及ぶところではなく、必ずやその深淵は今まで私が学んだ事とは別な意義があるに違いない」と言ったとされる。
その後、その経巻を携えて僧房に入り、ある比丘に請うて、概要を解説してもらうと曇柯迦羅は遂に因果の道理を深く悟り、三世の事を会得し、初めて仏教が広大で、俗書とは比較にならない事を知り、 世俗の栄華を捨てて出家して厳しい修行を行い、大乗小乗の経典と諸部派の律を読誦し、常に利他伝教[4](りたでんきょう)を優先させ自己の安穏のみを願うことは無かったとされる。
出家後
魏の嘉平 (魏)年間に(249年~254年)に洛陽に来て[5](『破邪論』巻上には「魏書では文帝の黄初三年(222)に許都に来た」と記述され[6]、『開元釈経録』巻1には文帝の黄初三年(222)に,洛陽にやってきたと述べられている)[7]。 白馬寺で経典の翻訳に従事。当時、魏国の仏教は僧侶は多かったが帰戒も受けておらず、剃髪していることだけが仏教者の証明であり、また斎祀や懺悔を行うのも中国古来の『祠祀』に則るものでしかなかった中国の仏教を正した。 また数人の僧侶から「戒律を訳してほしい」と頼まれると、曇柯迦羅は「戒律の翻訳は膨大な量になり、仏教が盛んでない魏では翻訳しても使われることは無い」と考え、僧侶が守る戒律として「僧祗戒心(そうぎかいしん)」を訳出して[8]、これを朝夕の用に備える方式を導入。 さらに魏に居た天竺僧に頼んで羯磨(かつま)の法を立てて、僧侶たちに授戒の儀式を執り行うという段取りにして戒律を授ける作法を初めて中国に伝えた[9]。その後の消息は不明だが、その授戒法で弟子となった朱士行は般若経の原典を求めて西域へ求法の旅に出る。
脚注
- ↑ 生天(しょうてん)の福。仏教の教義の一つで、死後に善行(善い行い)の報いとして「天界」(天)に生まれ変わることを指し、これは、輪廻転生の思想に基づき、生前の功徳によって死後のより良い境遇を得ることを意味する
- ↑ 「阿毘曇心論(あびどんしんろん)」四巻を漢訳した人物(大正蔵経二十八巻より)
- ↑ 釈迦入滅から三百年後に書かれた"諸行無常"の教えなどを説いた経典「説一切有部(せついっさいうぶ)」 その教学を発展させ"六因説"を解説した経典「発智論(ほっちろん)」 それを西暦150年頃に注釈した「大毘婆沙論(だいびばしゃろん)」 更にそれを要約したのが「毘曇(びどん)」こと「阿毘曇心論(あびどんしんろん)」であり、「倶舎論(くしゃろん)」や「顕宗論(けんしゅうろん)」の成立の基礎ともなった
- ↑ 「自分のことを忘れ、他人のために尽くす」という意味の仏教用語、最澄が示した言葉の忘己利他(もうこりた)と同じ意味
- ↑ 高僧伝 巻第一 訳経篇上
- ↑ 破邪論 巻上「魏書云,文帝黄初壬寅之歳,有沙門曇摩迦羅,至許都訳出戒律」訳(『魏書』に,文帝の黄初3年(222)に,曇摩迦羅という沙門がおり,許都にやってきて戒律を訳出したと云う)平井俊榮 駒澤大學佛教學部 論集 第23號 平成4年10月( 1 )高僧伝の注釈的研究(Ⅱ)13ページ【曇柯迦伝注】20項目目
- ↑ 『開元釈経録』巻1「文帝黄初三年壬寅。来至洛陽」訳(文帝の黄初三年に,洛陽にやってきた)平井俊榮 駒澤大學佛教學部 論集 第23號 平成4年10月( 1 )高僧伝の注釈的研究(Ⅱ)13ページ【曇柯迦伝注】20項目目
- ↑ 曇柯迦羅の訳出した僧祗戒心とは律宗の伝承では四分律に基づいた戒法であるとされるが、最近の研究では僧祗戒心とは大衆部 所伝の波羅提木叉に掲載される『僧祗律戒本』のことであるとされ、歴代三宝紀には「魏僧祗戒本一巻。初出見竺道魏世録」とあり、竺道祖(348−419)の魏世録(佚書 いっしょ)にはじめて記録されたものとされる 平井俊榮 駒澤大學佛教學部 論集 第23號 平成4年10月( 1 )高僧伝の注釈的研究(Ⅱ)13ページ【曇柯迦伝注】23項目目
- ↑ 以上のことは高僧伝に記載されている