曹国珍

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曹 国珍(そう こくちん、生没年不詳)は、五代十国時代官僚は彦輔。本貫幽州固安県[1]

若いころが乱れたので、国珍は髪を剃って僧侶の黒衣を着て、河西延州の客となった。高万興兄弟はいずれも文学を好んだので、国珍は召し出されて延州節度従事となった。国珍は文章の能力を自認していたので、科挙の受験を求め、上奏文をつかさどった。入朝して左拾遺となり、尚書郎に累進した。人と交際するたびに、財産を傾けて惜しむことがなかった。偏屈な性格で、経学史学は得意でなかったが、自ら誇りひけらかすことを好んだ。上奏文を多く作ったが、文字の誤りが多く、高官たちにそしられた。石敬瑭が節度使だったとき、国珍は私的に面会して、兄に対するように仕えた[1]

後晋天福3年(938年)、国珍は吏部郎中から左諫議大夫に任じられた[2]。天福7年(942年)、給事中となった[3]。さらに御史中丞の官を求めたが、ときの宰相に退けられ、これを恨んだ。李崧の母が死去し、弟たちに深州に葬らせると、李崧は官に復帰した。李崧は北郊の路隅に葬儀場を設けて、公卿大夫たちはみなその喪を送ったが、国珍は李崧の不孝をとがめて行かなかった。高祖(石敬瑭)が死去すると、宰相の馮道が山陵使をつとめたが、国珍は馮道を追放し、桑維翰を宰相とするよう上疏した。少帝にその僭越の言辞をとがめられ、陝州行軍司馬に左遷された。国珍は任地で鬱々として楽しまず、病にかかって死去した[1]

家族

  • 曾祖父:曹藹
  • 祖父:曹蟾
  • 父:曹絢[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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