曹娥 From Wikipedia, the free encyclopedia 出生 永建5年(130年)揚州会稽郡上虞県死去 漢安2年5月22日(143年6月21日)曹娥江(中国語版)拼音 Cáo É諡号 霊孝夫人(北宋の徽宗による)福応夫人(清の嘉慶帝による)霊感夫人(清の同治帝による)曹娥 後漢出生 永建5年(130年)揚州会稽郡上虞県死去 漢安2年5月22日(143年6月21日)曹娥江(中国語版)拼音 Cáo É諡号 霊孝夫人(北宋の徽宗による)福応夫人(清の嘉慶帝による)霊感夫人(清の同治帝による)父 曹盱(名は旰とも作る)テンプレートを表示 曹 娥(そう が、永建5年(130年)- 漢安2年5月22日(143年6月21日)[1][2])は、中国後漢中期の女性。揚州会稽郡上虞県(現在の浙江省紹興市上虞区)の人。孝女として知られる。 出典 - [3] 永建5年(130年)、覡であった曹盱(曹旰とも[1])の子として生まれる。 漢安2年5月5日(143年6月5日)、曹盱が舜江で祭儀を行っていたところ、奇しくも舜江が洪水、曹盱は吞まれて溺れ死んだ。曹娥は父の遺体も発見できず、哭すること17日間、遂にその舜江に後を追って入水した。時に14歳であった。 曹娥の遺体はこの5日後に、曹盱の遺体を抱えて舜江に浮かんでいるところを発見され、因んで曹娥の入水した「舜江」は「曹娥江(中国語版)」と改称され、曹娥は水神として祀られるに至った。 影響 上虞に現存する、蔡卞の「曹娥碑(中国語版)」 元嘉元年(151年)、後漢の上虞県長度尚は「曹娥廟(中国語版)」を建てて曹娥を祀り、加えて門弟の邯鄲淳に命じて「曹娥碑(中国語版)」を建立、誄文を作って、その孝を讃えさせた[4]。この碑文は非常に難解であったため謎語として扱われ、後漢末に魏の曹操が幕僚の楊修と共にこの碑文を解読したという逸話が残る[5]。 この碑はやがて失われたが、元祐8年(1093年)、北宋の蔡卞によって、高さ2.09メートル・幅1.03メートルの「曹娥碑」が行楷体で再刻され、現存している[6]。 大観4年(1110年)、曹娥は徽宗によって「霊孝夫人」と、清の嘉慶13年(1808年)には嘉慶帝より「福応夫人」と、同国の同治4年(1865年)には同治帝より「霊感夫人」とそれぞれ諡された[7][8]。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 デジタル大辞泉『「曹娥」の意味・読み・例文・類語』小学館、コトバンク。https://kotobank.jp/word/%E6%9B%B9%E5%A8%A5-551871。2025年12月11日閲覧。 ↑ 死没日については、曹娥の父曹盱が端午の日、即ち5月5日に溺死し、曹娥自身はその17日後に入水したため、(漢安2年の)5月22日とした。また、西暦への変換は兩千年中西曆轉換による。 ↑ 范曄『後漢書』「列女傳」曹娥傳:孝女曹娥者,會稽上虞人也。父盱,能絃歌,為巫祝。漢安二年五月五日,於縣江泝濤(迎)婆娑〔迎〕神,溺死,不得屍骸。娥年十四,乃沿江號哭,晝夜不絕聲,旬有七日,遂投江而死。至元嘉元年,縣長度尚改葬娥於江南道傍,為立碑焉。 ↑ 『會稽典錄』:上虞長度尚弟子邯鄲淳,字子禮。時甫弱冠,而有異才。尚先使魏朗作曹娥碑,文成未出,會朗見尚,尚與之飲宴,而子禮方至督酒。尚問朗碑文成未?朗辭不才,因試使子禮為之,操筆而成,無所點定。朗嗟歎不暇,遂毀其草。其後蔡邕又題八字曰:『黃絹幼婦,外孫虀臼。』 ↑ 大平幸代『「曹娥碑」を語る人々』奈良女子大学、1-2頁。https://nara-wu.repo.nii.ac.jp/record/2001731/files/an00118540v47pp288-310.pdf。 ↑ 紹興市政府『绍兴市志』:”宋元八年(1093),蔡卞摹拓本重书碑文。今存即为宋碑,高2.09米、宽1.03米,楷体。 ↑ 金廷棟『曹江孝女廟志』:宋徽宗大觀四年,高麗入貢,祈潮濟江,靈異顯著,始封靈孝夫人。 ↑ 金廷棟『曹江孝女廟志』:今准内閣交出封號,奉皇上硃筆圈出福應。欽此。相應移咨該撫,欽遵辦理可也。等因。嘉慶十三年四月二十七日到。同治四年九月,因紳士朱潮等之請,浙江巡撫馬公新貽疏於朝。五年十月,敕封神爲福應靈感夫人,並賜福被曹江匾額。 Related Articles