服部広太郎
日本の生物学者
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
- 1911年(明治44年)に徳川義親が同大学理科大学生物学科に学士入学した際には、講師となっていた服部が口利きをしたとされる[1]。
- 1914年(大正3年)、宮内庁御学問所御用掛に任ぜられ、東宮(のちの昭和天皇)に生物学を講じる[2]。
- 同年、御用掛に任ぜられた東洋史学者の白鳥庫吉とは、互いの子の服部親行と白鳥美千代を通じて姻戚関係にあった。
- 1923年(大正12年)、徳川生物学研究所の所長に就任[3]。その後、昭和天皇による生物学研究所の開設を取仕切り、1925年開設された生物学御研究所の主任に就任[3]。第二次世界大戦後も侍従職御用掛として、昭和天皇の生物学研究を支えた[4]。
- 1959年(昭和34年)12月、病気を理由に辞意を申し出るが慰留され、出仕日は不定期とされる。御研究所のことは富山一郎らに引き継がれた[5]。
人物
服部廣太郎の人物を知る資料として、下記の記事が残っている。
- 多数の人が常に無心で見て、何の興味をも感じない一片の木の葉、其木の葉の一生は如何なるものなのかを研究すれば、ここにも造化の妙機が窺われるのである。「造形の妙機」(家庭必読通俗科学 婦人叢書;第1編 1908年(明治31.6)P.88)
- “吹く風の色のちぐさにみえつるは 秋の木の葉の散ればなりけり”(古今集)凡ての葉の一生は斯くの如きもので、委細に玩味すれば、一片の木の葉にも、無限の意味があるやうに思はれる。「無限の意味」(家庭必読通俗科学 婦人叢書;第1編 1908年(明治41)P.96)
- 私は初めからこう信じていた。自然科学というものの道筋は、事実に即してそれから理論に入るのが本道である。そのためにはどうしても現物に接触しなくてはならん。現物に接触するには、われわれの方の部門でいえば動植物を採取しなければならん。そして自分で観察しなければならん。「事実に即して」(科学朝日 1948年(昭和23)生物学御研究室の天皇)
著作
単著
- 『細菌』岩波書店〈岩波講座生物学 9 植物学 4〉、1930年10月。 NCID BN08694350。全国書誌番号:46078580。
- 『細菌』(増訂版)岩波書店〈岩波講座生物学 9 植物学 4〉、1934年2月。 NCID BN11166871。全国書誌番号:69022007。
編集
- 『那須ヶ嶽のつつじ』服部広太郎、1935年10月。 NCID BA83814851。
- 『那須産変形菌類図説』服部広太郎、1935年11月。 NCID BA32890910。全国書誌番号:46067250。
- 生物学御研究所 編『那須産変形菌類図説』(増訂版)三省堂、1964年10月。 NCID BN04310264。全国書誌番号:65008165。
栄典
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]