Wikiwand AI

望月ひめやさ

From Wikipedia, the free encyclopedia

望月ひめやさ(もちづき ひめやさ、生年未詳(延慶2年〈1309年〉以前) - 没年未詳(延元元年/建武3年〈1336年〉以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての国人領主。信濃国長野県)の望月氏庶流の武将、望月重直の娘。諱は漢字にすると姫夜叉[1]諏訪大社上社大祝諏訪明神の依代)の猶子である「神氏」(神の一族)という宗教上の高位にあったことから、神氏(みわし)あるいは神氏女(みわのうじめ)[2]とも呼ばれる。史料上確実な人物としては、望月氏最後の神氏である。建武政権では信濃守清原某に所領を安堵される。望月氏本家とは違って北条時行中先代の乱1335年)にはおそらく呼応せず、建武の乱1336年)では足利方を支持した。茨城県の旧家・臼田氏が所蔵する「臼田文書」に土地権利関係の史料が現存し、当時の相続慣行や地域行政、諏訪神党の系譜などを知る上で貴重。

生涯

出自

鎌倉時代末期、御家人望月氏の傍流の武将で信濃国長野県)の小領主である望月重直の娘として誕生[1]。兄に大弐房重慶[2]。大伯父(あるいは大叔父)は望月しげよし(漢字不明)[1]。後世の「望月系図」と称する系図類では、父の重直や兄の重慶に相当する人物が一切現れず、本家当主との血縁関係も不詳である[1]。これは重直が庶流だからであろう[1]。しかし、そもそも後世に作られた望月氏の系図類は本家筋ですら同時代史料と整合しない場合がほとんどである[3]

望月氏は信濃国望月(長野県佐久市望月地区)を本貫とする[4]。歴史的な発祥は諸説あるものの、少なくとも平安時代保元の乱(1156年)以前から存在し、信濃の有力氏族滋野氏系武士団の中では海野氏祢津氏と共に三大氏族の一つとされる名族である[4]。鎌倉時代、望月氏嫡流は御家人(将軍に直属する上級武士)の身分の武士だった[5]

しかし、望月氏の末流である父の望月重直はほとんど領地を持たない小領主だった[1]。鎌倉時代後期の某年3月15日に、海野氏の勢力圏である海野荘鞍掛条賀沢村(東御市加沢)の田6反と在家1宇(農家1軒とそこに住む農民の労働力)を小田切兵衛次郎という武将から買い取り、これを所領とした(「臼田文書」北条貞時関東下知状)[6]。ある時、この領地の所有権を巡って某と裁判沙汰になった[6]永仁3年(1295年)10月13日、重直は裁判に勝訴し、鎌倉幕府第9代執権北条貞時から領地を安堵された[6]

また、重直は、この幕府の公式文書で「望月神平六重直」と呼ばれている[6]。重要なのが「神」という部分で、この時、重直が諏訪大社神氏(みわし)の資格を持っていて、それを鎌倉幕府から公式に認知されていたことがわかる[6]。神氏とは信濃の最大勢力である諏訪大社上社の大祝(おおほうり、祭祀のトップで神の依代)と擬制的な親子関係を結んだ人物のことで、形の上では鎌倉時代にも全国的に崇拝されていた諏訪明神(の依代)の子となることから、公的にもきわめて栄誉な地位と見なされていた[7]。重直が(おそらく)神氏在任中の期間、望月氏は諏訪大社の費用調達の頭役を免除されており(「大宮御造営目録」嘉暦4年(1329年))[注釈 1]、これも一族から神氏を輩出した家柄は別格だったからと思われる[7]。そのかわり、神氏の一族は「神使御頭」(こうとのおとう)という役目を務めた[7]

永仁4年(1296年)3月11日、重直は義伯母(義叔母)で尼になっていた「道しやう」(どうしょう)という人物から、海野庄三ヶ条(長野県東御市の和(かのう))にある今井村(未詳)の一町一反の地頭職を譲渡された(「臼田文書」尼道しやう譲状)[8]。おそらく夫の故・望月しげよしとの間に子がなかったからと思われる[8]。甥たちの中で特に重直を選んだのは、心優しい人柄で、道しやうに困った事があるときにいつも駆けつけてくれたので、気に入っていたからだという[8]

所領を父から譲られる

望月ひめやさの歴史上の初出は延慶2年(1309年)3月3日で、この日、父の重直から賀沢村の田6反と在家壱宇半(1軒半)を譲られた(「臼田文書」神重直譲状)[9]。在家(農家、農民)を半分だけ譲渡されるというのは一見変な表現だが、ここで在家という場合にはその農家の土地だけではなく主家への夫役の日数も含んでいる[9](現代風に言うと、その農民に1年につき6人月分の仕事をしてもらえる権利か)。

ただし、ひめやさの所領は一代限りで、死後は兄弟の大弐房重慶に譲ることとされた上に、結婚相手が非御家人あるいは凡下(平民)だった場合はすぐに重慶へ譲ることとされた[9]。 現在の所領についても、半分は将来を見込んで重慶に任せることとされたので、ひめやさの相続分は実質的には田3反と在家1/4だった[9]。 これは、代が進むごとに武士の領地が細切れになっていくのを防ぐためだった[9]鎌倉時代の武士は兄弟で領地・財産を分割相続し、室町時代の武士は惣領が一括相続して惣領になれなかった兄弟はその家臣となったが、ひめやさの相続は移行期の例にあたる[9]

建武の新政

その後、後醍醐天皇元弘の乱(1331–1333年)で鎌倉幕府を打倒し、建武の新政を開始した[10]。後醍醐は新政直後には綸旨(天皇の私的な命令文)で所領安堵を行っていたが、元弘3年(1333年)7月に諸国平均安堵法を発布し、各国の国司(公家方の都道府県知事)が安堵を行うと定められた[10]

望月ひめやさは「信濃国望月神平六重直女子神氏」として申状を書き、元弘3年(1333年)10月某日に国司へ書類を提出したところ、信濃守清原某は同月内の10月28日にひめやさの所領を安堵した(「臼田文書」)[2]。 清原某のこの対応の速さは、清原某が珍しく任地に在国の国司だったからだと思われる[11]。なお、この文書では舎兄大弐房重慶から譲状を受けたとされており、賀沢村の領地の知行をひめやさ一人で獲得しているが、兄の重慶がどうなったのか、なぜひめやさに譲状を書いたのかは不明である[2]

建武政権の諸国平均安堵法関係の文書は信濃国では2通しか現存していないため、当時の法制度を知る上で貴重史料である(もう1例は「市河文書」)[10]

ひめやさも「神氏」(みわし)を名乗っていることから、この時までに父の重直から神氏の位を相伝したと思われる[12]

中先代の乱と望月氏本家の衰亡

建武2年(1335年)7月、北条得宗家(北条氏嫡流)の遺児である北条時行と元・諏訪大祝の諏訪頼重らが、中先代の乱を起こした[13]。 中先代軍の中心は諏訪氏滋野氏だったが、滋野氏後裔の具体的な氏族名・武将名は史料ではわからない[13]。 とはいえ、滋野氏系有力氏族の望月氏も当然、時行・頼重の鎌倉攻めに加わっていたと思われる[13]。なお、ひめやさに所領を安堵した信濃守清原某は、軍記物語『太平記』金勝院本では頼重の軍に敗退して自害と描かれている[14]

しかし中先代軍が鎌倉に滞在中の8月1日、信濃守護の小笠原貞宗らによって、望月氏の本拠地である望月城が落城し打ち壊されてしまった(「市河文書」市河倫房同助保着到状建武二年八月日)[13]。その後、鎌倉の中先代軍も足利尊氏に敗退し鎮圧される[13]。この時の敗退は非常に手痛かったらしく、以降、望月氏は確かな史料では100年ほど存在を追うことができなくなる[13]

足利方に所領を安堵される

中先代の乱の敗退で望月氏の本家は壊滅状態になったが[13]、ひめやさは所領を失っていなかった[15]。これはひめやさが、望月本家とは違って中先代勢力に味方していなかったからだと思われる[15]

中先代の乱は、やがて後醍醐天皇足利尊氏の争い建武の乱(1336年)に発展した。一進一退の攻防となったが、一度九州に追いやられた足利方は、延元元年/建武3年5月25日1336年7月4日)に湊川の戦いで勝利し、一転して有利な状況になった。

戦局が足利方有利な状況の延元元年/建武3年(1336年)8月5日、おそらく中先代の乱で北条氏に味方しなかったことを理由として、ひめやさは所領の安堵を申請し、足利方と思われる「宮内大輔」という人物から安堵された(年号も建武政権方(後の南朝)の「延元」ではなく、足利方(後の北朝)の「建武」を使用)[15]。最終的に確定した所領は賀沢村の田6反と在家1宇である(「臼田文書」)[15]

これがひめやさに関する最後の史料で、以降の消息は正確には不明である[15]。また、史料で確認できる人物としては、ひめやさが望月氏で最後の神氏である[12]

その後

望月ひめやさのその後の人生や縁戚関係、子孫などは正確には不明で、諸説ある[注釈 2]。しかし、ひめやさの文書が、茨城県稲敷市羽賀の旧家である常陸臼田氏の「臼田文書」に残っていることから、ある程度の推測は可能である[17]

滋野姓臼田氏は海野氏の分家で、もともとは田中氏といい、信濃国小県郡海野荘田中郡(長野県東御市田中地区)を本貫とする武士である[18]。 理由不明だが、臼田重経という武将の代から、当時の所領ではないはずの信濃国臼田(長野県佐久市臼田地区)を本貫として臼田(うすだ)を名乗り始める(おそらく旧領の一つだったか)[18]

  • 延慶4年(1311年)時点で、望月重直と同じ頃の田中氏(臼田氏)当主の経長も神氏に任じられており[19]、重直家と田中氏(臼田氏)はいわば同族のような関係だった(何らかの血縁関係があった可能性もある)[20]
  • 望月重直が土地を購入した小田切氏の本貫の小田切郷(長野県佐久市大字上小田切、中小田切、下小田切)の地は、臼田郷とは隣同士である[20]。つまり、土地契約の上でも関係が示唆される[20]
  • 延慶4年(1311年)に初出の人物で、祖父の経長から所領を譲られた田中宮一丸は、正中3年(1326年)の文書に登場する臼田重経と同一人物と思われる[21]
    • 望月ひめやさも延慶2年(1309年)に初出の人物で父から所領を譲られており[9]、田中宮一丸(臼田重経)と同世代と思われる。

望月氏の通字である「重」の漢字を用いる臼田氏(田中氏)当主は、臼田重経が最初である[17]。おそらく、重経の代に望月氏と何か深い繋がりを結んだと思われる[17](つまり望月重直の一族の側では望月ひめやさの代である)。以降、臼田重経の子孫たちの多くは、諱に望月氏の通字である「重」を用いている[17]

臼田四郎左衛門尉(重経の嫡子の光重?)は正平9年/文和3年(1353年)2月時点で、室町幕府の初代関東管領で当時南朝方の上杉憲顕に仕えていた(文書では年号に南朝の「正平」を使用)[17]。その後、足利尊氏薨去後の上杉憲顕復権に伴い、上杉氏の家臣である臼田氏も出世し、子孫が常陸国茨城県)に所領を獲得、信濃の地を引き払って関東に軸足を移した[17]。室町幕府と上杉氏の没落後、豊臣秀吉の関東侵攻(1590年)で兵農分離が進んだ際に武士の身分を捨てて帰農した[17]。帰農後も常陸の土豪・旧家として一定の権勢を保った[17]

ひめやさの文書を含む古文書群は長らく門外不出だったが、1954年に当時の臼田氏当主である臼田喜平が『信濃史料』編纂所や東京大学史料編纂所等に調査を許可したことから、「臼田文書」として一般に内容を知ることができるようになった[17]

脚注

参考文献

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks