望月卓也

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国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県豊田郡東野町(現:同郡大崎上島町
生年月日 (1956-05-08) 1956年5月8日(69歳)
身長
体重
182 cm
70 kg
望月 卓也
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県豊田郡東野町(現:同郡大崎上島町
生年月日 (1956-05-08) 1956年5月8日(69歳)
身長
体重
182 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1974年 ドラフト2位
初出場 1977年4月2日
最終出場 1983年7月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

望月 卓也(もちづき たくや、1956年5月8日 - )は、広島県豊田郡東野町(現:同郡大崎上島町)出身の元プロ野球選手投手)。

竹原高校では3年時の1974年夏の広島県大会で、エースとしてチームを決勝まで導く活躍を見せた。川島日出雄(太平洋)のいた盈進高校との決勝戦では奮投したが、7回裏に勝ち越し点を許して1対3で惜敗し、高校3年間で甲子園に出場することはなかった。

1974年のドラフト会議広島東洋カープから2位指名され、入団。同期には高橋慶彦がいた。大石清投手コーチのアドバイスで、当時の巨人のエース・小林繁のフォームを参考にして右足と左足が交差する瞬間に投球モーションを停止させることで相手打者のタイミングを外しにかかり、しなやかな上体と長いリーチをフルに生かした変則フォームへ改造すると、サイドスローからくり出す速球カーブスライダーシュートシンカーを武器に、主にリリーフとして活躍した。

1978年オフ、金田留広渡辺秀武との交換トレードで、平田英之劔持節雄とともにロッテオリオンズへ移籍。オリオンズでもカープ時代と同様、リリーフとして起用された。1983年オフに現役引退。

引退後は運輸会社に勤め、2019年に退職するまで管理職を務めた[1]

1979年5月12日、オリオンズは後楽園球場での日本ハムファイターズとの試合で「1試合7与死球」という不名誉なプロ野球記録を樹ち立ててしまったが、望月はこの試合で3番手投手としてマウンドに上がり、1イニングで3連続死球を記録した[2]。これは日本プロ野球タイ記録であり、3連続死球に限定すると望月の後には2014年田島慎二中日)が記録するまで35年間記録されなかった[2]

エピソード

ロッテ時代のチームメイトだった愛甲猛は、試合中に初めて望月の真横の席に座った際に「おい愛甲、両掌をくっつけたあと開いてみ」と望月に言われ、「この人、いきなり何言ってるんだ?」と疑問に思いながらもその通りにしたら、両掌に望月が噛んでいたガムを吐き捨てられたと、高橋のYouTubeチャンネルにゲスト出演した愛甲が語っている[3]

また広島時代の高橋は、「俺と同い年のアイツ(望月)と土居(正史)はそういうイタズラをしょっちゅうやってたし、俺とはまた違ったヤンチャさがあったね。ここ(YouTubeチャンネル)では話せないヤバいエピソードもたくさんある」と語っている[4]

詳細情報

脚注

関連項目

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