大石清
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
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| 出身地 | 静岡県清水市 |
| 生年月日 | 1940年4月3日 |
| 没年月日 | 2023年11月28日(83歳没) |
| 身長 体重 |
176 cm 75 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1959年 |
| 初出場 | 1959年4月25日 |
| 最終出場 | 1970年 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023年11月28日)は、静岡県清水市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
「剃刀」と喩えられたストレートとスライダーを武器に、「カープ史上最速のピッチャー」と評された。
清水商業高校では3年次の1958年に春季中部大会1回戦で岐阜商に逆転負けし、夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。卒業後は清水商野球部後援会と立教大学校友会静岡支部の推薦で立大進学が決まっていたが、家庭の事情でプロ入りが決まる。
1959年に広島カープへ入団し、同期には後に阪急でもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ、若くして主戦投手となる[1]。
プロ入り当初から気が強く度胸が座っていたことで知られ、プロデビューとなった1959年の南海とのオープン戦に登板した大石は死球を4つ出し、このうち2つの死球を受けた大沢啓二の怒りは凄まじく、2度目の時はバットを大石に向かって投げつけた[2]。本気で当てる気はなく、手前で止まったが、大石は無表情のままバットを拾い上げると、逆に南海ベンチに向かって投げ返した[2]。その後は両軍の揉み合いとなったが、いつの間にかこの噂が他球団にも広がり、「あいつはすごい」「心臓に毛が生えている」と評判が立つと、大石は「すいませんと謝って投げ返したんですけど、声が小さかったかな。でも、そういうイメージはプラスでした」と笑った[2]。この態度・度胸に南海の鶴岡一人監督は大いに感心したという。
2年目の1960年にスライダーを覚えて[3]巨人戦7連勝[2]を含むリーグ2位の26勝を挙げ、衰えの見えた長谷川良平に替わりエースにのし上がる。
3年目の1961年には27勝、1962年20勝と3年連続20勝を打ち立てたほか、3年連続で200奪三振、100を越える四死球を与えて3年連続最多与四死球も記録[1]。度胸満点の内角攻めは「カミソリ」と称され、「広島史上最速投手」とも言われる[1]。
1960年と1962年にはオールスターゲームに出場するが、1963年に10勝22敗を記録してセ・リーグでは秋山登以来となる連続リーグ最多敗戦投手になる等やや落ち込む。
1964年は17勝、防御率2.92(10位)と復活し、3度目のオールスターに選ばれている。
その後は右肘を痛めて勝ち星を伸ばせず[4]、1965年以降は僅か4勝に終わる。
1966年オフに大洋ホエールズから大石獲得の申し出があり、広島側は交換相手として長田幸雄を要求するものの決裂。大石の低迷により投手補強を目論んでいた広島は阪急の大石弥太郎に目を付け、"大石清⇔大石弥太郎" の「大石交換」が成立した[5]。
1967年頃の阪急投手陣には足立光宏・米田哲也・梶本隆夫ら10年選手が先発陣に腰を据えていたこともあり、大石はリリーフに転向して復活する。同年には42試合に救援登板し、5勝、防御率2.59を記録、移籍1年目ながらチーム創設32年目の初優勝に貢献。同年の巨人との日本シリーズでは3試合に登板。
その後の阪急は3年連続優勝を遂げ黄金時代を迎えるが、大石も毎年40試合以上に救援登板して、 交代完了数も20試合前後に及び、1968年には4年ぶりに10勝を挙げている。同年の巨人との日本シリーズでは4試合に登板、最終第6戦では7回から米田をリリーフするが、2死を取るものの1安打1死球で降板。交代した梶本が王貞治に3点本塁打を喫し敗戦投手となった。
1969年も6勝を挙げリーグ3連覇に貢献し、同年の巨人との日本シリーズでも3試合に登板したが、0勝に終わった1970年限りで現役を引退。
引退後は指導者としての素質が開花し、阪急(1971年スカウト→1972年 - 1973年二軍投手コーチ→1974年一軍投手コーチ)、近鉄(1975年 - 1976年, 1999年一軍投手コーチ)、古巣・広島(1977年一軍投手コーチ→1978年 - 1981年二軍投手コーチ)、日本ハム(1985年 - 1987年, 1995年 - 1997年一軍投手コーチ)、阪神(1988年 - 1989年, 1993年 - 1994年二軍投手コーチ、1990年 - 1992年一軍投手コーチ)と30年間で5球団を渡り歩く。投手コーチとしては「前の日に登板していた投手でも、その投球内容に納得がいかなければ翌日に投げ込みをさせる」ほど、選手に厳しい指導を課すことで知られていた。ただ、決して一方的な押し付けだけではなく、話し合う時はとことん話し合って応じていたという。
阪急スカウト時代にはまだ優勝は決まっていない中、先に優勝を決めていた巨人の調査を始めた[6]。根来広光コーチと共に広島-巨人戦(広島市民)を視察し、試合にはビデオを持ち込み、三塁コーチの牧野茂を中心に撮影していた[6]。
広島コーチ時代には川口和久・金石昭人を送り出し[7]、望月卓也には巨人のエース・小林繁のフォームを参考にして右足と左足が交差する瞬間に投球モーションを停止させることで相手打者のタイミングを外しにかかり、しなやかな上体と長いリーチをフルに生かした変則フォームへ改造させた。
日本ハムコーチ1期目は高田繁監督の要請で就任し[8]、2期目は岩本勉のイップス克服に大きな影響を与え[9][10][11]、今関勝・島崎毅・関根裕之・高橋憲幸を育てた。一方で、武田一浩と対立して二軍へ追っ払ったあげく、武田の昇格要請をことごとく拒否したこともあった。
阪神コーチ時代には湯舟敏郎・中込伸・猪俣隆・葛西稔・野田浩司・仲田幸司・田村勤・弓長起浩を育て、球界屈指の投手王国を作り上げた。野田は「厳しい指導で仲たがいもあったが感謝したい。」と述べている[12]。1990年、1991年と順位は2年連続最下位、チーム防御率も2年連続でリーグワーストを記録という投手陣を再建すべく、各投手の心技体を向上させていく一方、作戦面を担当した有田修三コーチと共に潜在能力が引き出し、1992年の阪神のチーム防御率は2.90でリーグ1位を記録。
1992年は田村が故障して以降、抑えが固定せず、実績ある中西清起が代役を務めたほか、先発の仲田も兼務していたが、中村勝広監督は「今いちばん安定している」と、湯舟にも兼務させようとした[13]。湯舟の抑えについては有田と共に中村に「抑えで使わんで」と伝えていたが、勝てば有利となる10月7日のヤクルト戦、一死一、三塁とすると中村が動き、湯舟をマウンドに送った[13]。満塁になった時、中村が「ちょっとマウンドに行って来てよ」と大石に言ったが、湯舟のリリーフに反対の大石は「あんたが行けよ」と返した[13]。その試合、湯舟に代わった中西が打たれてサヨナラ負けを喫し、両者の間に深い溝ができ、オフに大石は二軍に配置転換された[13]。
近鉄コーチ2期目には佐野慈紀とソリが合わず、一軍投手陣も火の車でチームも最下位であったため、2年契約であったものの1年で退団。退団会見の際に発した発言「自分が退団して一番喜んでるのは佐野だろう」について、佐野自身が後年語っている[14]。
コーチ時代は投手育成に定評があり[1]、阪急・広島で2度優勝を経験し、広島コーチ時代の1979年・1980年には日本一も経験。リーグ優勝ではないものの、近鉄コーチ時代の1975年にはパ・リーグ後期優勝にも関わる。
コーチ業の間を縫う形でTBS・中国放送解説者(1982年 - 1984年)、スポーツニッポン評論家(1982年 - 1984年, 1998年)[1]も務めた。
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1959 | 広島 | 39 | 21 | 4 | 0 | 1 | 9 | 10 | -- | -- | .474 | 710 | 173.0 | 146 | 14 | 55 | 7 | 7 | 183 | 1 | 2 | 70 | 63 | 3.28 | 1.16 |
| 1960 | 60 | 39 | 16 | 3 | 2 | 26 | 13 | -- | -- | .667 | 1380 | 341.0 | 265 | 18 | 107 | 19 | 11 | 215 | 2 | 1 | 108 | 97 | 2.56 | 1.09 | |
| 1961 | 59 | 36 | 21 | 1 | 3 | 27 | 18 | -- | -- | .600 | 1370 | 346.1 | 271 | 25 | 100 | 7 | 5 | 243 | 2 | 0 | 113 | 94 | 2.44 | 1.07 | |
| 1962 | 58 | 37 | 21 | 3 | 2 | 20 | 18 | -- | -- | .526 | 1343 | 331.1 | 265 | 30 | 100 | 7 | 13 | 209 | 3 | 0 | 104 | 99 | 2.68 | 1.10 | |
| 1963 | 48 | 30 | 8 | 1 | 0 | 10 | 22 | -- | -- | .313 | 944 | 218.1 | 221 | 35 | 75 | 10 | 7 | 115 | 1 | 1 | 114 | 101 | 4.15 | 1.36 | |
| 1964 | 51 | 30 | 15 | 3 | 2 | 17 | 15 | -- | -- | .531 | 1059 | 261.2 | 221 | 25 | 74 | 8 | 8 | 143 | 0 | 0 | 93 | 85 | 2.92 | 1.13 | |
| 1965 | 21 | 14 | 1 | 1 | 0 | 2 | 8 | -- | -- | .200 | 340 | 81.2 | 82 | 11 | 22 | 1 | 2 | 40 | 0 | 0 | 36 | 32 | 3.51 | 1.27 | |
| 1966 | 34 | 13 | 2 | 1 | 1 | 2 | 7 | -- | -- | .222 | 440 | 104.2 | 104 | 10 | 31 | 1 | 3 | 45 | 3 | 0 | 59 | 50 | 4.29 | 1.29 | |
| 1967 | 阪急 | 47 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | -- | -- | .385 | 448 | 111.1 | 87 | 12 | 41 | 5 | 4 | 77 | 1 | 0 | 35 | 32 | 2.59 | 1.15 |
| 1968 | 48 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | -- | -- | .769 | 412 | 100.0 | 87 | 11 | 35 | 4 | 4 | 71 | 0 | 0 | 33 | 30 | 2.70 | 1.22 | |
| 1969 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | -- | -- | .600 | 320 | 79.1 | 63 | 14 | 26 | 5 | 3 | 37 | 0 | 0 | 32 | 28 | 3.19 | 1.12 | |
| 1970 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 48 | 8.2 | 18 | 1 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 8 | 8 | 8.00 | 2.54 | |
| 通算:12年 | 516 | 226 | 88 | 13 | 11 | 134 | 126 | -- | -- | .515 | 8814 | 2157.1 | 1830 | 206 | 670 | 74 | 67 | 1381 | 13 | 4 | 805 | 719 | 3.00 | 1.16 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1960年、1962年、1964年)
背番号
- 39 (1959年)
- 22 (1960年 - 1966年、1968年 - 1970年)
- 12 (1967年)
- 73 (1972年 - 1974年)
- 63 (1975年 - 1981年、1985年 - 1987年)
- 88 (1988年 - 1994年)
- 81 (1995年 - 1997年)
- 71 (1999年)
関連情報
解説者時代に出演していた番組(以下現行タイトル)
- S☆1 BASEBALL
- RCCカープナイター・RCCカープデーゲーム中継
参考文献
- 『広島東洋カープ(金山次郎監修)』(ISBN 4-89174-012-4)30-31ページより
- 『広島東洋カープ60年史 -躍動!赤ヘル軍団-』ベースボール・マガジン社、2009年