木下正中

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木下 正中 (きのした せいちゅう[1]1869年9月24日明治2年8月19日[1] - 1952年昭和27年)1月1日[1])は、日本の産婦人科医師・医学者[1]医学博士[2]東京帝国大学教授[1]

生い立ち

1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ[3]。1844年 - 1914年[3])の長男として若狭国小浜に出生[4]。木下家はもと小浜藩藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる[4][注釈 1]。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ[4]。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した[3]。正中も父に従って京都に移った[4]

医学を修める

1882年(明治15年)[8]、14歳のときに医学を修めるために単身上京[4]獨逸学協会学校獨協中学校・高等学校の前身)[4]大学予備門第一高等中学校[注釈 2]を経て[4]、1890年(明治23年)に帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進んだ[4][8]。1894年(明治27年)、香港でのペスト流行に際して日本政府が調査団を派遣した際には、内科学教授青山胤通に随行し、医学生でありながら調査団に加わった[4]。1894年(明治27年)、帝国大学医科大学卒業[8]スクリバに外科学を学んだのち[4]、福島県立病院[注釈 3]で副院長・外科医長を務めた[4]

1897年(明治30年)より1年半、ヨーロッパに私費留学[4]ミュンヘン大学ヴィンケルドイツ語版教授に産婦人科学を学んだ[注釈 4]。帰国後の1898年(明治31年)、大阪府医学校(大阪大学医学部の前身)産科婦人科教諭となったのち[8][4]、同年東京帝国大学助教授となり[8]、1904年(明治37年)に教授となった[4][8][注釈 5]

なお、1902年(明治35年)に患者から医療過誤による損害賠償請求訴訟を起こされており(判決は無罪)、これが日本最初の医療訴訟とされる(後述)[10]

社会事業

木下は東京帝大キリスト教青年会(YMCA)に所属し[4]、キリスト教精神に基づく活動に取り組んだ[4]

1917年(大正6年)、東京帝大を依願免官[4]日本橋浜町に浜町病院を開設した[4]。1918年(大正7年)、吉野作造らとともに賛育会を設立[4][注釈 6]。「賛育会」の名は木下が『中庸』の文言「天地ノ化育ヲ賛ク」から選んだものである[9]。現在の社会福祉法人賛育会は「賛育会創設期における木下の役割はきわめて大きく、その体を成すにあたっては、木下なくして成しえなかった」と評価している[9]。賛育会は、無料診療を原則とする賛育会本所産院(賛育会病院の前身)の運営を開始したが[4][9]、その資金の多くは木下によって調達された[9]

1923年(大正12年)の関東大震災で浜町病院は被災[注釈 7]。震災後、麹町区九段の一口坂[12]に「木下産科婦人科病院」を開く[5]

1926年(大正15年)、賛育会は財団法人格を取得するが、第1回理事会で木下は理事長の座を吉野作造に譲り(木下は初代理事長として位置づけられている)、以後は評議員として賛育会を支えた[9]

医学史研究・医学用語の整理

昭和初期、医学用語の整理・統一が各分野において課題となっていた(たとえば日本解剖学会では、解剖学用語の整理・統一が進められた[13])。「国語」としての日本語の改良を求める運動(国語運動)の働きかけを受ける形で[14]、1940年に日本医学会は医学用語整理委員会を設けたが[15]、木下はその委員長を務めた[15]

また、医療器具の歴史についても関心を寄せた[16]。1944年(昭和19年)、日本医科器械学会(現在の日本医療機器学会)会長に就任[8]、1948年(昭和23年)までその席にあった[8]

第二次世界大戦の戦災により、九段の「木下産科婦人科病院」や、木下がドイツからもたらした蔵書などを失った[12]。第二次世界大戦後、木下は国語審議会に委員として参加した[17][18][19]

1950年には『世界医学人名辞典』(医学書院)を刊行した[20]

1952年(昭和27年)1月1日没、82歳。正四位勲三等。 

家族・親族

妻の泰子は、医科大学の同級で親友であった下瀬謙太郎(陸軍軍医学校校長)の妹[3]。子は三男七女であった[12]

長男の木下正一(せいいつ)は産婦人科医となり、木下病院長・賛育会病院院長を務めた[4][12]

二男は化学者の木下恭二(横浜国立大学工学部名誉教授)[12]。恭二の二男[12]は物理化学者[21]木下實(東京大学名誉教授[5])。

長女の木下篤子は木下是の家を継ぎ[2]、益雄(旧姓: 田村[4]熊本医科大学教授[4])を入夫とした[22]。益雄・篤子夫妻の長男は物理学者の木下是雄学習院大学学長)[4]、二男は木下佐東邦大学産婦人科教授)[4]

三女の直子は、正中の門下生であった石川正臣日本医科大学学長)と結婚した[4]。関東大震災の際、石川は浜町病院に駆けつけて人員や資材の避難にあたったが、そのために自身が大学に残してきた学位論文のための資料を焼失したというエピソードが伝わる[4]

六女の弘子は、細菌学者・医学史学者の川喜田愛郎(千葉大学学長)と結婚した[4]

弟の木下東作は運動生理学者となり大阪医科大学などで教鞭を執ったのち、大阪毎日新聞社に転じて運動部長に就任、スポーツ評論家として活動するとともに、日本女子スポーツ連盟を設立するなど、スポーツ界に足跡を残した[1][23]。妹の操子は工学者の松村鶴造(京都帝国大学教授)の妻[24]

日本初の医療訴訟

脚注

参考文献

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