杉田玄白

日本の江戸時代中期~後期の医師(蘭学医) From Wikipedia, the free encyclopedia

杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日1733年10月20日〉 - 文化14年4月17日1817年6月1日〉)は、江戸時代江戸蘭学医江戸に生まれ、青年期に江戸で学び、江戸で小浜藩医として勤務し、江戸の日本橋浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)で私塾天真楼を主催し、江戸で死去した。諱はたすく子鳳しほう、号は鷧齋いさい、のちに九幸翁きゅうこうおう

死没 文化14年4月17日1817年6月1日)(83歳没)
著名な実績解体新書』(和訳書)、『蘭学事始』(回顧録)
親戚 父:杉田甫仙、母:蓬田玄孝の娘、養子:杉田伯元
概要 杉田 玄白, 生誕 ...
杉田 玄白
杉田玄白(石川大浪筆、重要文化財
生誕 享保18年9月13日1733年10月20日
日本の旗 日本
江戸 牛込
死没 文化14年4月17日1817年6月1日)(83歳没)
著名な実績解体新書』(和訳書)、『蘭学事始』(回顧録)
親戚 父:杉田甫仙、母:蓬田玄孝の娘、養子:杉田伯元
医学関連経歴
職業 蘭学医(町医者、小浜藩医)
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ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスが著したAnatomische Tabellen(解剖学表)をオランダ人医師がオランダ語に翻訳したOntleedkundige Tafelen(オントレートクンディヘ・ターフェレン、"解剖学的表"、日本国内の通称:ターヘル・アナトミア)を入手し、前野良沢中川淳庵らとともに和訳し『解体新書』として出版したことや、晩年に『蘭学事始』を執筆したことで著名である。

生涯

福井県小浜市にある杉田玄白の銅像杉田玄白記念公立小浜病院の正面に設置されている

父は小浜藩医杉田甫仙、母は蓬田玄孝の娘である[1]

江戸で誕生

小浜藩医杉田甫仙の三男として、江戸牛込小浜藩酒井家下屋敷において生まれる[2]。難産であり、母は出産の際に死去している[3]

8歳で小浜へ

元文5年(1740年)、玄白が8歳の時に一家は小浜へ移った[2]。父の甫仙が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)まで、少年時代を小浜で過ごした[2]。小浜では兄や義母を失っている[4]

青年期に江戸で学ぶ

青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲[3]に、漢学本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬龍門[3]に学んだ。

江戸で藩医の仕事を開始

宝暦3年(1753年)、5人扶持で召し出されて小浜藩医となり[3]屋敷に勤める。宝暦4年(1754年)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を広げるとともに、玄白が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる。

宝暦7年(1757年)には、小浜藩に籍を置きながら日本橋町医者として開業する[2]。同年7月には、江戸で本草学者の田村元雄平賀源内らが物産会を主催。出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまっていたと思われる。この頃から山脇東洋の人体解剖や京都の古医方にも影響を受け、家業とする外科領域で新しい道を開くため、中国の外科書や治療方法、日本の経験的薬方や治療方法、聞き及び、あるいはのちに入手した蘭学の知識を織り込みながら『瘍家大成』の編述を開始する[5][6]

明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。同年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問。通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白はオランダ語習得を断念している。明和6年(1769年)には父の甫仙が死去[2]。家督(30人扶持)と侍医の職を継ぎ[2][3]、新大橋の中屋敷へ詰める。

『解体新書』(複製)。国立科学博物館の展示。

明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る[7]。友人桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上された。

江戸で医学塾「天真楼」を主催

安永5年(1776年)藩の江戸の中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅とする。そこで開業するとともに「天真楼」と呼ばれる医学塾を開いた。玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、儒学者の柴野栗山は「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」と書き記している。晩年には藩から加増を受けて400石に達している[8]

晩年
『蘭学事始』明治2年刊。
栄閑院にある杉田玄白墓

晩年には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊される。文化2年(1805年)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上している。文化4年(1807年)に家督を子の伯元に譲り隠居。著書に『形影夜話』ほか多数。

玄白は晩年、「翁(わたし)は多病にて、年も長たり...諸君大成の日は翁は地下の人となりて、草葉の蔭に居て見待るべし」などと言うことが口癖となり、それを何度も聞かされた友人らは彼のことを「草葉の蔭」とあだ名するようになったらしい(晩年の著書『蘭学事始』より[9]

文化14年(1817年)に83歳で息を引き取る。墓所は東京都港区愛宕の栄閑院。肖像石川大浪筆のものが知られ、早稲田大学図書館に所蔵されている(重要文化財)。1907年(明治40年)11月15日、贈正四位

系譜

祖先

杉田家は近江源氏佐々木氏の支族で、萬石行定の子孫である真野氏の家系とされる(間宮氏も同祖とされる)[10]。戦国時代、武蔵国久良岐郡杉田村(現在の横浜市磯子区杉田)の住人であった真野新左衛門信安は、間宮信高間宮康俊の四男)に属して水軍の将として武功をあらわし、間宮の名字を許された[10]。間宮(真野)信安の子の主水次郎長安は、北条家滅亡後に杉田村に蟄居し、名字を杉田に改めたという[10]。その後長安は、娘婿の五兵衛忠元とともに、橘樹郡菅生(現在の川崎市宮前区菅生)に移って帰農した[10]。忠元の子・杉田八左衛門忠安は、父の実家が間宮家に仕えていた縁で藤井松平家に推挙され、300石取りの物頭を務めたという[10]。武家としての杉田家は忠安の長男が継ぐが、忠安の二男が医家杉田家の始祖となる初代杉田甫仙であり、玄白の祖父である[10]

初代杉田甫仙は西玄甫にオランダ語と蘭方医学を学び、藤井松平家(当時は古河藩主)の藩医となる[10]。しかしその後古河藩の改易により浪人を余儀なくされ、最終的に小浜藩酒井家に藩医として召し抱えられた[10]。2代杉田甫仙が玄白の父である。

子孫

玄白は前妻・登恵との間に一男二女(扇、八曾)を儲けたが男児が夭折したため、杉田家宗家は、弟子で娘扇の婿となった杉田伯元(1766-1837、仙台藩医建部清庵の子)が嗣ぎ、その後弟子の杉田玄端(1818-1889、玄白再婚後の実子杉田立卿の猶子)が伯元の子・白玄(1801-1874)の養子となって宗家を継いだ[11]。次娘の八曾(1775-1860)は安岡玄真の妻となったが離縁し、某藩の奥女中となり、同藩の藩士の子を養子にして宗端と名乗らせた[12]

玄白は後妻・伊與との間には、立卿(1785-1845)、藤、そめ(1791-1844)、八百(-1853)を儲けた[11]。玄白にとって二男となる甫仙(後の杉田立卿)は玄白から50石を分けられて別家を立てている[3]。弘化2年11月2日60歳で逝去。末娘の八百は鳥取藩医・田中淳昌(-1840)の妻となり、その子・淳良(1834-1875)は伊沢蘭軒の孫娘の婿となり伊沢棠軒(良安)を名乗った[12]

孫(立卿の子)の杉田成卿(梅里、1817-1859)は幕府天文方となったが、生まれつきの病弱に加え心労により安政6年2月19日(1859年3月23日)に43歳で逝去した。

子孫としては、成卿の娘婿に洋学者の乙骨太郎乙、その娘婿に帝室林野局技師の江崎政忠、その子に昆虫学者の江崎悌三、その長男によど号ハイジャック事件時の副操縦士・江崎悌一、二女るりの婿に法学者の手島孝、るりの孫にプロ野球選手長谷部銀次などがいる[13]。なお、長谷部が2022年ドラフト会議で広島東洋カープより6位指名された10月20日は玄白の誕生日でもある[14]

著作(近年刊)

評伝

脚注

登場作品

関連項目

外部リンク

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