木下雅楽助 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不明死没 天正12年4月9日(1584年5月18日)別名 嘉俊、忠頼、通称:薩摩守、周防守 凡例木下雅楽助時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不明死没 天正12年4月9日(1584年5月18日)別名 嘉俊、忠頼、通称:薩摩守、周防守主君 織田信長→豊臣秀次氏族 織田氏→木下氏父母 父:織田刑部大輔?兄弟 中川重政、津田盛月、雅楽助、織田善右衛門、津田正勝、養雲院[1]、竹中重矩室子 延重テンプレートを表示 木下 雅楽助(きのした うたのすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田薩摩守、織田周防守。諱は「嘉俊」「忠頼」などがあるが確かではない。 尾張国の武士。系図類では父は織田刑部大輔で、織田信長の叔父・織田信次の孫に当たるとされるが、年代的に疑問視される[2][3]。中川重政、津田盛月の弟にあたる[4]。 永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いに参加して、前哨戦で前田利家・毛利河内ら9名と共に斬穫した首を持って信長の許に参じた[5]。 永禄4年(1561年)の森部の戦いで美濃斎藤氏家臣の長井新八郎という武将を討ち取って高名した[4]。そしてこの頃に赤母衣衆に選抜されている[6]。 永禄12年(1569年)8月の伊勢国大河内城の戦いでは「尺限廻番衆」を務め[7]、菅屋長頼・塙直政・前田利家・福富秀勝・中川重政・河尻秀隆・湯浅直宗らと共に城を包囲した。だが、雅楽助はこの戦いで股を負傷したと言われる[4]。 その後、元亀3年(1572年)8月に兄である中川重政・津田盛月らが織田家を追放処分となった一件に連座したのか、一時消息不明となる[3]が、天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは連枝衆の一員で織田竹千代の次に「織田周防」として参加している[9]。 後に羽柴信吉(後の豊臣秀次)に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで三河国中入り部隊が編成された時に羽柴信吉が大将を務める第4陣に参加して徳川家康の本拠岡崎城を目指していたが、4月9日に白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)で休息していた際に、後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われ信吉の隊は壊滅。この際に雅楽助は討死したという[3]。 黒田基樹は、『明智軍記』に信長に仕えた羽柴秀吉は足軽となった際に「中村藤吉郎」と称して雅楽助の組に配属されたが、後に信長の直臣に取り立てられた際に信長の命令で雅楽助から「木下」の名字を授けられたとする記述に着目し、同書は成立年代は元禄期と遅い一方で、『信長公記』にその名があるとは言え元禄期に著名だったとは考えにくい木下雅楽助が秀吉の寄親であったと明記しているのは何らかの信頼できる情報源が存在していたのではないかとしている[10]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 名古屋因幡守妻、名古屋山三郎母 ↑ 「木下雅楽助」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、167頁。ISBN 9784642014571。 1 2 3 4 5 6 谷口 1995, p. 150. 1 2 3 『織田系図』による[3]。 ↑ 太田牛一 著、近藤瓶城 編『国立国会図書館デジタルコレクション 信長公記』 第19、近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年、33頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/76 国立国会図書館デジタルコレクション。 ↑ 『高木文書』による[3]。 ↑ 『信長公記』による[3]。 ↑ 太田牛一 1926, p. 205. ↑ 『信長公記』による[8]。 ↑ 黒田基樹「秀吉の織田家出仕と寧々との結婚」『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年、102-111頁。ISBN 9784047037397。 参考文献 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、83頁。 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』(第1)吉川弘文館、1995年、150頁。ISBN 4642027432。 Related Articles