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大河内城の戦い

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大河内城の戦い(おかわちじょうのたたかい)は、戦国時代永禄12年(1569年)に伊勢国大河内城で行われた合戦である。尾張国戦国大名・織田信長と、伊勢国国司である北畠具教具房親子との間で行われた。

概要 大河内城の戦い, 交戦勢力 ...
大河内城の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日永禄12年8月24日1569年
場所伊勢国大河内城
北緯34.527194度 東経136.472778度 / 34.527194; 136.472778
結果:和睦による開城
交戦勢力
織田軍 北畠軍
指導者・指揮官
織田信長
木造具政
滝川雄利
柘植保重
神戸具盛
長野具藤
北畠具教
戦力
70,000 8,000
損害
不明 不明 
織田信長の戦い
大河内城の戦いの位置(中京圏内)
大河内城の戦い
中京圏における位置
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概要

合戦までの経緯

1567年(永禄10年)、織田信長は神戸具盛長野具藤を降し、北伊勢の八郡を手中に収め、残る南伊勢五郡を支配する国司大名・北畠家と対立していた。北畠家の当主は北畠具房であったが、実権は隠居した前当主・北畠具教が握っていた。

1569年(永禄12年)5月、木造城主・木造具政(具教の弟)が源浄院主玄(後の滝川雄利)と柘植保重の献策により、織田側につく。織田側の武将・滝川一益の調略であった。対する具教は5月12日、木造城を包囲し攻撃するも(『桑名志』)、滝川、神戸氏、長野氏の援軍もあり、8月に入っても木造城は持ち堪えていた。

開戦

同年8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、総勢7万といわれる軍で岐阜を出陣。23日、木造城に着陣した。

北畠軍は既に囲みを解いており、1万6千の兵を天険の要害である大河内城とその支城に分散させ籠城していた。大河内城の北畠軍の兵数は約8千であったといわれる。

8月26日、織田軍の木下秀吉阿坂城を攻撃、落城させる。信長は他の支城は放置し、大河内城へ向かった。

8月28日、織田軍は四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を2重3重に作った。

9月8日、信長は丹羽長秀池田恒興稲葉良通に夜討ちを命じる。しかし雨が降り出して鉄砲が使用不能になったため、後退した。この時、池田恒興の家来・朝日孫八郎波多野弥三が討ち死にし、また、丹羽長秀の家来・近松豊前神戸伯耆神戸市介溝口富介ら20余人が討ち死にした[1]

翌日9月9日、信長は兵糧攻めを狙い、滝川一益に命じて多芸城を焼き討ちさせる。さらにその近辺にも放火し、住民を大河内城へと追い込んだ。

この後、1ヶ月ほど間が空く。滝川一益が魔虫谷から攻め込んだが失敗に終わったというが、詳細は不明である。

10月3日、織田家と北畠家は和睦した。

この時の和睦の条件は、

  • 信長の次男である茶筅丸(織田信雄)を具房の養嗣子とすること。
  • 大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること。

という、織田側に有利なものであった。

10月4日、滝川一益と津田一安が城を受け取りに出向き、無事引き渡された[2]

参戦武将と配置

・『信長公記』による織田軍の参加武将と配置[3]

大河内城南方面:織田信包滝川一益津田一安稲葉一鉄池田恒興和田定利中島豊後守進藤賢盛後藤高治蒲生賢秀永原重康永田正貞青地茂綱山岡景隆山岡景猶丹羽長秀

大河内城西方面:木下秀吉氏家卜全安藤守就飯沼長継佐久間信盛市橋長利塚本小大膳

大河内城北方面:斎藤利治坂井政尚蜂屋頼隆簗田弥次郎右衛門中条家忠磯野員昌中条又兵衛

大河内城東方面:織田信長柴田勝家森可成山田勝盛長谷川与次佐々成政佐々隼人梶原景久不破光治丸毛長照丹羽氏勝不破直光丸毛兼利

柵内を巡回する番衆:菅屋長頼塙直政前田利家福富秀勝中川重政木下雅楽助松岡九郎次郎生駒平左衛門河尻秀隆湯浅直宗村井新四郎中川金右衛門佐久間弥太郎毛利良勝毛利長秀生駒勝介神戸賀介荒川新八猪子賀介野々村幸政山田弥太郎滝川彦右衛門山田左衛門尉佐脇良之


・『勢州軍記』による北畠軍の参加武将[4]

北畠具教北畠具房、森本飛騨守、森本彦十郎、方穂民部少輔、林備後守、林新丞、侍大将は鳥屋尾満栄、鳥屋尾与左衛門尉、鳥屋尾右近将監、水谷俊之、水谷藤次郎、阿保若狭守、安保大蔵少輔、岸江又三郎、安保右馬允、磯田彦右衛門尉、佐々木源左衛門尉、今川左馬允、野呂左近将監、山本左馬助、長野左京亮、朴木隼人正、日置大膳亮、玉井兵部少輔、玉井新次郎、星合左衛門尉、稲尾勘解由左衛門尉、稲尾与四郎、家城之清、石橋治部太夫、田上左衛門太夫、榊原弥四郎、山崎式部少輔、真柄宮内丞、真柄修理進、久保三河守、杉山菅右衛門尉、山室十郎左衛門尉、服部孫次郎、柴山長九郎、水野勝次郎、大西平三郎、三瀬蔵人、三竹五郎九郎、大内山但馬守、山崎大炊助、阿曽弾正忠、下村仁助、潮田長助、神戸治部入道玄務、熱田源兵衛入道玄斎

そのほか小胡曽方、出江方、湯原方、宮田方、県松井方、須賀佐波方、志貴湯浅方、神條中村方、寺卿王相方、黒田中津方、菅瀬渡邊方、伊勢寺久瀬五郎左衛門尉、牧野方、加藤方、広田、佐藤、江馬、唐櫃、明豆、栗谷、峯、森、乙栗栖、田引、家野、奥村、福本、粟野、赤樋、滝野、馬場、五箇、六呂木、波多瀬、山副、谷、三田、満賀野、新、岡村、福田山、臼杵、吉懸、堀内、久須見、堀山

合戦の影響

大河内城を明け渡し、具教は霧山城に近い三瀬館(現在の三重県多気郡大台町)、具房は坂内城に移ったものの、少なくとも4年後の天正元年(1573年)9月迄実権を保ち続けた。

なお、谷口克広は信長の北畠氏との戦いはむしろ信長方が次第に劣勢となり、足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している[5]。また、久野雅司は、信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている[6]

脚注

参考文献

関連項目

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