木鼠吉五郎
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天保5年(1834年)の夏、入墨者(前科者)で無宿人の利吉とほか10人は往来や商家で窃盗を繰り返していた。その内の播州無宿・定蔵こと木鼠吉五郎は仲間の万吉や清七と共に旅人をよそおって遠州屋忠蔵方を訪れ、鼻紙袋[1]とそれを収める
無宿人たちはその後北町奉行所に捕えられた。盗んだ櫛のうち2枚が買い取った芳吉という男の柳行李の中から見つかり、無宿人たちは全員窃盗の犯行を認めたが、吉五郎1人は犯行を否認した。櫛が忠蔵の店から盗まれた物に相違無いという証言や、忠蔵の店で働く徳次郎ともう1人による突合せ吟味[2]で櫛を盗んだのは吉五郎に間違いないという証言もあったが、吉五郎は仲間のうちの無宿人・勝五郎の仕業であると言い立て、なおも否認し続けた。
吉五郎は、かつて大坂で盗みを働いた廉で大坂町奉行所で入墨・
27回の拷問
江戸時代の裁判は、物証や証言がいくらあっても、容疑者自身の自白が無い限り、罪状・処罰が確定しない。『御定書』にも殺人・放火・盗賊・関所破り・謀書謀判(文書偽造)の5つは、証拠が明白であっても当人の自白が不可欠と定められている。証拠が揃っていながら犯行を認めない吉五郎を自白させるため、拷問が行われることになった。
吉五郎の取り調べを最初に担当した吟味方与力・東条八太郎が拷問を開始したのは天保5年7月21日のことである。以後、天保7年までの3年間に以下のとおり、計27回の拷問が繰り返された。
- 天保5年
- 天保6年
- 天保7年
- 2月13日 縛敲・石抱9枚
- 3月2日 縛敲・石抱9枚
- 4月3日 縛敲・石抱9枚
- 4月11日 釣責
- 4月21日 釣責(5時間実施)
5回目の拷問の日である天保5年10月21日、拷問を開始する前に吉五郎は櫛を盗んだことを認めた。しかし、その3日後の10月24日、激しい風雨が江戸を襲った夜に吉五郎は脱獄をし、逃走してしまった。女の家に潜伏していた吉五郎を、南町奉行所が捕縛したのは翌天保6年3月のことであった。南町奉行の筒井政憲は吉五郎を100回の重敲にかけた後、その身柄を北町奉行所に戻した。吟味方与力が脱獄前の自白を元に吉五郎の
縛敲と石抱を繰り返しても自白を得られなかった北町奉行所は、9月22日に海老責を行い、同年12月2日にも再度海老責を試みたが、吉五郎は自白しなかった。翌天保7年、北町奉行榊原忠之は、釣責を実施することにし、老中の許可を得た[5]。文化5年(1808年)以来、29年ぶりに実施された釣責であったが、4月11日と4月21日の2回にわたって行われながら、吉五郎を自白させるには至らなかった。