本多氏は藤原兼通の末裔[注釈 4]を称し、鎌倉時代の末ごろに右馬允助秀が豊後国本多[注釈 5]に住したことから本多を名字としたという[7]。系図によれば、助秀の子・本多助定が足利尊氏に仕え、尾張国横根郷・粟飯原郷に所領を与えられた[7][6]。
本多右馬允助定という人物の存在は、史料上で確認できる[9][10]。建武4年(1337年)8月5日付の足利尊氏下文の写により、知多郡横根郷(横禰郷とも。現在の愛知県大府市横根町付近[9])・愛知郡粟飯原郷(現在の名古屋市緑区相原郷付近[10])が本多助定に恩賞として与えられたことが判明する。
系図によれば、助定の子が助政で[7]、助政の子に本多定政(定正)や本多定通[注釈 6]があるという[7]。
『寛政譜』巻第六百九十三の、本多正信・正純家の系譜は、本多定政の子とされる本多定吉から起こされており[1]、定吉の孫が忠正である[1][注釈 7]。この家系の人物で具体的な事績が記されるのは忠正からである[1]。
『寛政譜』巻第六百九十一の、本多広孝・康重家(編纂時は信濃飯山藩主家、当主は本多助受)の系譜は、本多助政の子「本多定正」から記されており[11]、その子・正吉から広孝らにつながっている。『寛政譜』の按文では、「本多定正」と「本多定政」を同一人物とし[11][1]、本多正吉と本多定吉は兄弟であるとするが、互いの家譜に記載がないために兄弟順の決定ができないとする[11]。
『寛政譜』には男子3人を載せる。
- 長男:本多正定 - 弥八郎
- 二男:本多正行 - 弥七郎
- 三男:本多助俊 - 十三郎
上述の通り、三男の助俊は父とともに戦死した[5]。長男の正定と二男の正行も松平清康に仕え、尾張国の織田信秀が安城城を攻めた際(安城合戦)に援軍として派遣され、ともに戦死した[1]。正定の子が俊正、俊正の子が本多正信らとなる[5]。