相原郷
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歴史
かつて当地には貝塚が存在したといい、古代から大規模な集落が形成されていた可能性が指摘されている[2]。当地には鎌倉街道が通っていたため古くから町が栄えていた[WEB 6]。
町名の由来
鳴海町の小字名「相原郷」による[1]。古くは「粟飯原」「藍原」と書かれていた[1][3]。『尾張徇行記』によれば古鳴海と二村山の中間に位置するという意味の「鳴海アイノ原」に由来するというが[4]、この地域一帯は鳴海絞りの本場であることからは藍染めに由来する地名であるとの説もある[3]。「郷」とは単に村という意味でつけたものだと考えられている[2]。
地名は、南北朝期から確認でき[4]、『足利尊氏下文写』に1337年(建武4年)8月5日付で足利尊氏が敵を討った本多右馬助定という人物に「粟飯原郷」を与えたとの記録が残されている[2][4]。室町時代前期に書かれた『満済准后日記』には、鳴海庄の一つとして「あいはら」と記載がある[4]。
相原村
中世まで当地は鳴海荘の一部であったが、1608年(慶長13年)、慶長検地に際して相原村が分離成立した[2][2]。そのため周囲を鳴海村に囲まれていた[3]。相原村の領域は現在の相原郷とその周辺地域を指し、徳重や鳴海町字宿地・早稲屋・片坂の辺りまでを含んだという[2]。『寛文村々覚書』よると、相原村は家数30、人口213、牛馬23[4]。『尾張徇行記』によれば、相原村の概高632石のうち約576石が藩士8人の給地で、当時の給人として中条多膳、尾崎伝兵衛、兼松銀之丞、室賀多宮、長坂藤右衛門、上田半右衛門、酒井林左衛門、森平八が挙げられている[2]。田畑42町2反のうち32町6反が田を占めていた[3]。江戸時代は専ら農業のみが行われており、人口が多かったため労働力は十分であったという[4]。
1876年(明治9年)に相原村は鳴海村、平手新田と合併し鳴海村となった[4]。もともと「相原郷」とは相原村のことを指したというが、合併以降は相原郷の中心地を指す小字名となった[5]。なお鳴海町の小字に「相原町(あいばらまち)」があるが、これは1584年(天正14年)に当時相原村の領域であった字宿地の人々が移住してきたためこの名がついたのだという[2]。
行政区画の変遷
世帯数と人口
学区
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[WEB 12]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[WEB 13]。
| 丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
|---|---|---|---|---|
| 相原郷一丁目 | 全域 | 名古屋市立相原小学校 | 名古屋市立鳴海中学校 | 尾張学区 |
| 相原郷二丁目 | 全域 |
