本多忠鵬 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代生誕 安政4年12月21日(1858年2月4日)死没 明治29年(1896年)3月24日改名 増三(幼名)→忠鵬 凡例本多忠鵬 時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代生誕 安政4年12月21日(1858年2月4日)死没 明治29年(1896年)3月24日改名 増三(幼名)→忠鵬墓所 愛知県碧南市札本町の康順寺官位 従五位下、対馬守幕府 江戸幕府藩 三河西端藩主→西端藩知事氏族 本多氏父母 父:本多忠寛兄弟 忠鵬、正順子 辰男テンプレートを表示 本多 忠鵬(ほんだ ただゆき)は、三河西端藩の第2代(最後の)藩主。 安政4年(1857年)、大身旗本本多忠寛(後に西端藩の初代藩主)の長男として江戸で生まれる。慶応3年(1867年)5月20日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで藩主となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与して尾張藩に属した。また、西端陣屋を改築している。 明治2年(1869年)6月、農兵を徴兵して洋式訓練を行なっている。直後の6月23日、版籍奉還により西端藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県後は西端県知事に任じられるが、11月の新県合併で額田県と合併して愛知県に編入されたため、罷免されて東京へ移った。 明治17年(1884年)5月、宮中祗候に任じられる。同年7月、華族令に伴い子爵を授爵した。明治24年(1891年)9月、裁判所から家産分散の宣告を受ける。この頃の本多家は経済的に傾いていたと考えられる。 明治29年(1896年)3月24日、死去、享年40。 家族 父母 本多忠寛(父) 子女 本多辰男 日本の爵位 先代叙爵 子爵(西端)本多家初代1884年 - 1896年 次代本多辰男 表話編歴本多氏西端藩2代藩主 (1867年 - 1871年) 本多忠寛1864-1867 本多忠鵬1867-1871 廃藩置県 Related Articles