本多正訥
日本の侍 (1827-1885)
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴

明治維新まで
田中藩第5代藩主本多正意の七男[1](六男とも[2])として生まれる。
安政3年12月22日(西暦1857年1月17日)、兄正寛の養子となる。安政4年11月15日(1857年12月30日)、将軍徳川家定に拝謁。同年12月16日(1858年1月30日)、従五位下伯耆守に叙任(後に紀伊守)。万延元年(1860年)閏3月16日、前月の正寛死去により家督を継ぎ[1]、田中藩第7代藩主となる。
文久2年11月14日(1863年1月3日)、新設された学問所奉行の一人に就任(相役は秋月種樹)。文久3年(1863年)、下総国所在の田中藩飛び地領の管轄のため、流山郊外の加村に屋敷(加村陣屋)を建設し、江戸深川にあった下屋敷の人員を移転した。
元治元年(1864年)7月21日、駿府城代に就任。戊辰戦争勃発後の慶応4年(1868年)2月10日、東海道鎮撫総督府よりそのまま駿府警守を命じられ、2月12日、尾張藩が派遣した勤皇誘引使都筑九郎右衛門に勤皇証書を渡して、駿府城引渡しに同意した。
江戸開城後、徳川宗家の駿河国・遠江国への移封(静岡藩)に伴い、6月13日に東征大総督府の命により駿府城代を免じられ、徳川家達に駿府城を引き渡す。同年7月13日、徳川家の静岡入封に伴い、江戸鎮台は正訥(田中藩)に対し、代替として安房国・上総国への移封を命じた(長尾藩)。
安房長尾藩
新領地の藩庁は、藩士で兵学者の恩田仰岳の選定により、白浜に近い安房国長尾村滝口(現・千葉県南房総市白浜町滝口)に陣屋を建設して置くこととなった[3][4]。移転先の準備が整うまで正訥や藩士の多くは旧領内藤枝宿の寺院に止宿した[5]。
明治2年(1869年)2月、藩校日知館を安房に移転[6]。同年6月20日、正訥は版籍奉還を行なって知藩事となる。同年夏、台風によって建設中の長尾陣屋が倒壊[3][4]。もともと長尾での陣屋建設は藩内に反対論が多く、恩田仰岳は譴責処分となり[3][4]、翌明治3年(1870年)正月以降[7]、館山に近い北条村鶴ヶ谷に新たな藩庁(北条陣屋)や藩士居住地の建設が進められた。正訥は同年5月に北条陣屋に着任した[8]。明治3年12月23日(1871年2月12日)、隠居して養子正憲が家督を相続。