本斗

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大字本斗
大字
本斗港
北緯46度40分 東経141度52分 / 北緯46.667度 東経141.867度 / 46.667; 141.867座標: 北緯46度40分 東経141度52分 / 北緯46.667度 東経141.867度 / 46.667; 141.867
日本の旗 日本
地方行政官庁 樺太庁
支庁 真岡支庁
本斗郡
市町村 本斗町
人口情報1927年(昭和2年)末[1]
 人口 4,943 人
 世帯数 1,071 世帯
設置日 1915年(大正4年)9月[2]
廃止日 1949年(昭和24年)6月1日
地図座標は樺太廰本斗支廰管内教育會による[3]
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本斗(ほんと、ロシア語: Хонто)は、樺太本斗郡本斗町にかつてあった大字1949年(昭和24年)の国家行政組織法施行に基づき法的に消滅した[4]。旧ロシア帝国領ホントケシ・トロマイ一帯、旧樺太本斗郡本斗村大字本斗の一部、現ロシア連邦サハリン州ネベリスク管区ロシア語版ネベリスク一帯に相当する[5][6][7][8]樺太庁によれば、1927年(昭和2年)末現在における人口は4,943人、世帯数は1,071世帯[1]。樺太唯一の不凍港といわれた本斗港を擁していた[9]

地形

桟橋通市街
中通市街

本斗は本斗町を構成していた4大字(本斗・遠節阿幸吐鯤保)の一つであり、本斗市街地や鳥舞沢集落(殖民区画)を擁していた[4]樺太西海岸、本斗町の南部に位置していた[10][11]。北は遠節、南は吐鯤保、東は峰巒山脈を介して留多加郡留多加町大字多蘭内と接し、西は間宮海峡(韃靼海峡)に面していた[4][9]。域内北部には字北本斗が所在しており、北本斗には通称地名として朝鮮沢と呼ばれる部落が存在していた。

字鳥舞沢は旧ロシア帝国領トロマイ、字本斗は旧ロシア帝国領ホントケシ(ロシア語: Хандокеси[注 1]に相当する[12][8]。 。現在は概ねロシア連邦サハリン州ネベリスク管区ロシア語版ネベリスクとなっている[13][12]

    • 遠節山
  • 河川[14]
    • 遠節川
    • 鳥舞川 - 沿岸に肥沃な農耕地帯が広がる[15]
    • 吐鯤保川

小字

大字本斗は1924年(大正13年)時点で以下の53字を擁していたとされる[16][注 2]

  • 字南浜通一丁目
  • 字南浜通二丁目
  • 字西浜通一丁目
  • 字西浜通二丁目
  • 字浜通一丁目
  • 字浜通二丁目
  • 字浜通三丁目
  • 字浜通四丁目
  • 字浜通五丁目
  • 字浜通六丁目
  • 字浜通七丁目
  • 字浜通八丁目
  • 字浜通九丁目
  • 字浜通十丁目
  • 字浜通十一丁目
  • 字浜通十二丁目
  • 字中通一丁目
  • 字中通二丁目
  • 字中通三丁目
  • 字中通四丁目
  • 字中通五丁目
  • 字中通南一丁目
  • 字中通南二丁目
  • 字鳥舞
  • 字大通南一丁目
  • 字大通一丁目
  • 字大通二丁目
  • 字大通三丁目
  • 字大通四丁目
  • 字大通五丁目
  • 字大通六丁目
  • 字大通七丁目
  • 字大通八丁目
  • 字大通九丁目
  • 字大通十丁目
  • 字大通十一丁目
  • 字大通十二丁目
  • 字大通十三丁目
  • 字山通一丁目
  • 字山通二丁目
  • 字山通三丁目
  • 字山通四丁目
  • 字山通五丁目
  • 字北山通三丁目
  • 字北山通四丁目
  • 字北山通五丁目
  • 字山手町一丁目
  • 字山手町二丁目
  • 字山手町三丁目
  • 字山手町四丁目
  • 字北本斗
  • 字鳥舞沢

行政区

1929年(昭和4年)10月11日施行の本斗町例規「区ノ分区及区長設置規則」によれば、大字本斗は樺太町村制8条に基づいて以下のような区が設置されていた[18][19]

  • 第3区 - 字南浜通一丁目・二丁目、字中通一丁目・二丁目
  • 第4区 - 字中通一丁目・二丁目・三丁目、字大通一丁目・二丁目・三丁目、字浜通一丁目・二丁目・三丁目、字山通一丁目・二丁目・三丁目、
  • 第5区 - 字大通五丁目・六丁目、字山通四丁目・五丁目、字中通五丁目、字浜通四丁目・五丁目
  • 第6区 - 字大通七丁目・八丁目・九丁目・十丁目、字浜通七丁目・八丁目・九丁目・十丁目
  • 第7区 - 字大通十一丁目・十二丁目・十三丁目、字北山通三丁目・四丁目・五丁目、字浜通六丁目・十一丁目・十二丁目
  • 第8区 - 字北本斗
  • 第14区 - 字鳥舞沢

気候

気候は樺太の中でも温暖な部類に入り、平均温度[注 3]は通年で4.5度で8月には平均気温25度前後、最高気温30度にまで達するが、1月には最低気温氷点下25度に達することもある[20][9]。11月から3月にかけての5か月は非常に寒冷で気温は概ね氷点下となっている[21]。風は4月から8月上旬にかけては南風、9月から11月にかけては北西風が多い[21]。雪は1921年(大正10年)から1925年(大正14年)までの平均値で10月19日に降雪が始まり、5月1日に終わるとされ、降雪日数は195日であった[22][23]。同様に積雪は例年11月5日に始まり、4月16日に完全に融解し終えるとされる[23]

樺太庁観測所本斗支所の気候
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
最高気温記録 °C°F 6.3
(43.3)
5.9
(42.6)
9.2
(48.6)
19.7
(67.5)
24.2
(75.6)
26.1
(79)
28.1
(82.6)
30.2
(86.4)
27.6
(81.7)
21.0
(69.8)
15.9
(60.6)
7.2
(45)
30.2
(86.4)
日平均気温 °C°F −8.6
(16.5)
−8.2
(17.2)
−3.9
(25)
2.4
(36.3)
6.9
(44.4)
11.5
(52.7)
16.0
(60.8)
18.4
(65.1)
14.6
(58.3)
8.5
(47.3)
1.2
(34.2)
−4.9
(23.2)
4.5
(40.1)
最低気温記録 °C°F −24.3
(−11.7)
−24.5
(−12.1)
−19.8
(−3.6)
−12.0
(10.4)
−5.8
(21.6)
−1.2
(29.8)
3.8
(38.8)
5.6
(42.1)
0.7
(33.3)
−4.9
(23.2)
−14.6
(5.7)
−19.5
(−3.1)
−24.5
(−12.1)
降水量 mm (inch) 30.4
(1.197)
26.5
(1.043)
28.7
(1.13)
49.0
(1.929)
61.0
(2.402)
52.5
(2.067)
95.2
(3.748)
110.2
(4.339)
99.3
(3.909)
102.7
(4.043)
94.2
(3.709)
58.9
(2.319)
810.0
(31.89)
出典:本斗町商工会 (1920年-1934年)[24]

歴史

本斗には江戸幕府大日本帝国による殖民が行われる以前から、原住民らが居住していたとされ、日本風の地名が付けられる前には「ホントケシ(本斗)」「トラコタン(場所不明)」「トロマイ(鳥舞)」「オタライチカ(福海寺付近から吐鯤保字吐鯤保沢までの地域)」といった地名が存在していた[25]ロシア帝国領時代にはトロマイ(鳥舞)に「満州土人」の集落が築かれていたとされる[26]日露戦争の講和条約であるポーツマス条約1905年(明治38年)に締結され、ポントケシ含む南樺太大日本帝国領となると、ホントケシ周辺の漁場が1906年(明治39年)から1912年(明治45年)にかけて日本人によって開発された[26]。1906年(明治39年)には雑漁商である宝力綱吉ら18人を乗せた汽船柳川丸が来島した[26]。これを機に日本人(主に漁師)による殖民が進み、領有当初は十数戸に満たない寒村だった地に無秩序な宅地形成がなされ、争いが起こった[26][27]。そこで1907年(明治40年)にはオタライチカに20戸、トロマイに20戸、トラコタンに30戸の漁業設備地を区画し、殖民者を配列収容した[26]。人口は順調に増加し、本斗(ホントケシ)は1908年(明治41年)には60戸、1912年(大正元年)には180戸、1914年(大正3年)には260戸に達した[26][注 4]。人口・戸数の増加につれて市街地化が進み、本斗市街地には後に大通、中通、浜通、山通、北山通、山手町、北本斗といった町名・通名が設けられた[26]。市街地の外にある殖民区画である鳥舞沢は1913年(大正2年)に北海道から移住者が居住し始めたのが始まりであるとされる[28]

1911年(明治44年)3月21日には明治44年3月21日内閣告示第2号「樺太ニ於ケル地名左ノ通󠄁改正ス」が施行され、ホントケシが本斗と改称された[29]。そして、1915年(大正4年)9月には本斗村で大字が設定され、本斗村大字本斗が成立した[2]。大字本斗の区域は「遠節南端ヨリ山脈ニ沿ヒ吐鯤保山及通節山ヲ経テ郡境ニ至ル以南ノ地域一円」と告示されていた[2]1924年(大正13年)1月18日には樺太庁本斗支庁告示1号「大字ノ名稱及區域」が施行され、大字本斗の一部をもって大字吐鯤保が分離独立し、大字本斗の区域は「北方北本斗及遠節トノ中間分水嶺ヨリ遠節川及鳥舞川分水嶺ニ沿ヒ遠節山ニ至リ南方大字吐鯤保境界ニ至ル地域一円」となった[30][30]

皇太子裕仁親王を奉迎する本斗町民

1925年(大正14年)8月、皇太子裕仁親王が樺太を訪問した。「樺太行啓」である。同月24日に裕仁親王は本斗を訪れ[31]、町では浜通に歓迎のアーチを建てて裕仁親王を奉迎するという、町始まって以来の行事となった[31]

1927年(昭和2年)4月18日には本斗で大火が発生し、多くの家屋が焼け落ちた[32]。火元は山手通三丁目1番地であり、山手通三丁目の半分と中通三丁目、大通三丁目、浜通三丁目の半分を焼いて19日早朝に鎮火した[32]。この火災により、本斗郵便局や樺太時事支局が全焼し61戸が焼失、56万円の被害額となった[32][33]。また、同年11月11日にも火事が発生し、27戸全焼、被害額10万円の被害が発生した[34]

1945年(昭和20年)8月、ソビエト連邦軍が日ソ国境を越えて、南樺太に侵攻した[35]。8月24日にはソビエト連邦軍が本斗町を攻略し、1946年(昭和21年)2月20日に樺太・千島全域の領有を宣言するに至った[35]。なお、ソ連軍による本斗町の制圧の際、戦闘は行われず、犠牲者はほとんど出なかった[35][36][37]。以降、本斗町大字本斗は日本の施政権が及ばない地となり、1949年(昭和24年)の国家行政組織法の施行により廃止され、大字本斗の30余年にわたる歴史は幕を閉じ、以後サハリン州ネベリスク管区ネベリスクの一部となった。

沿革

  • 寛政2年(1790年) - 松前藩士の高橋寛光・松前平光・鈴木熊蔵ら一行が「トンナイ(字鳥舞)」でホマクリオ・シケタクンヨシヨ・イワンカレショという3人のロシア人と出会った[38]
  • 1905年(明治38年) - 日露戦争樺太作戦により大日本帝国軍樺太を占領。また、その後の講和条約により、南樺太が日本の支配下に入る。
  • 1907年(明治40年) - 樺太庁が発足。ホントケシ一帯はマウカ支庁の管轄下となる[39]
  • 1908年(明治41年)3月31日 - 明治41年3月31日内務省告示第29号『樺太地名改正』をもってマウカ支庁が真岡支庁となる[40]
  • 1909年(明治42年)
    • 真岡支庁本斗出張所が設置される[3]
    • 11月21日 - 郵便局が設置される[41]
  • 1911年(明治44年)3月21日 - 明治44年3月21日内閣告示第2号「樺太ニ於ケル地名左ノ通󠄁改正ス」が施行され、ホントケシが本斗と改称される[29]
  • 1913年(大正2年)
    • 鳥舞沢殖民区画の開拓が始められる[28]
    • 7月 - 鳥舞神社が創建される[28]
  • 1914年(大正3年) - 鳥舞沢青年団が発足[28]
  • 1915年(大正4年)
    • 8月1日 - 大正4年6月26日勅令101号『樺太ノ郡町村編制ニ關スル件』が施行され、本斗郡が設置[42]。また、その下にまた、その下に宗仁村・南名好村・内幌村・本斗村・阿幸村・海馬村の6村が設置された[42]
    • 9月 - 本斗村で大字が設定され、本斗村大字本斗が成立[2]
    • 9月15日 - 鳥舞川に沿って鳥舞沢から本斗に至る道路が建設される[28]
  • 1918年(大正7年)6月 - 本斗警察署が設置される[3]
  • 1920年(大正9年)1月 - 樺太庁観測所本斗支所と同施設附属験潮所が設置される[3]
  • 1922年(大正11年)
    • 4月1日 - 本斗村が阿幸村を合併し、本斗町が成立[43][28]。本斗村大字本斗は本斗町大字本斗となる[43]
    • 10月30日 - 樺太庁の支庁として本斗支庁が設置され、大字本斗は支庁所在地となる[3]
    • 11月 - 樺太庁鉄道西海岸線が開通し、本斗駅が設置される[3]
  • 1924年(大正13年)1月25日 - 樺太庁本斗支庁告示2号『大字ノ名稱及區域』が施行され、本斗町大字本斗の一部をもって本斗町大字吐鯤保が成立[44]
  • 1927年(昭和2年) - 本斗大火が起こる[32]
  • 1928年(昭和3年) - 石油鉱にて再度試錐が実施される[45]
  • 1929年(昭和4年)7月1日 - 昭和4年3月27日法律第2号「樺太町村制」が施行され、本斗町は一級町村に属する[46][47][28]
  • 1930年(昭和5年)1月 - 本斗林務署および真岡区裁判所本斗出張所が開設される[48]
  • 1933年(昭和8年)1月30日 - 市街地及び北本斗を配水区域とする水道が竣工[49]
  • 1943年(昭和18年)
    • 4月1日 - 昭和18年法律第85号により、明治40年法律第25号『樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律』が廃止され、樺太が内地に編入される[50]
    • 6月1日 - 昭和18年5月25日勅令第443号『市制町村制施行令中改正ノ件』により、樺太町村制が廃止され、代わりに本斗町で町村制が施行される[51][52]
  • 1945年(昭和20年)8月24日 - ソビエト連邦が樺太に侵攻し本斗町を制圧[35][36][37]
  • 1946年(昭和21年)2月20日 - ソビエト連邦が樺太・千島の領有を宣言[35]
  • 1949年(昭和24年) - 国家行政組織法施行。本斗町大字本斗が法的に消滅。

地名の由来

和名「本斗」は明治44年3月21日内閣告示第2号「樺太ニ於ケル地名左ノ通󠄁改正ス」により、1911年(明治44年)3月21日に旧称のホントケシから改称される形で命名された[29]

  1. 「小さい間」を意味する「ポント」と「平磯」を意味する「ケシ」が合わさり転訛したという説[53]
  2. 「小さい湖の端」を意味するアイヌ語である「ポント・ケシ(Ponto-kesn)」が転訛したという説[53]
  3. 「小さい湖の西」を意味するアイヌ語である「ポン・トウ・ケシ(Pon-to-kesh)」が転訛したという説[53]

施設

本斗町役場

以下は昭和初期における大字本斗における施設である[54]

公的機関
  • 本斗町役場
  • 本斗警察署
    • 北巡査派出所(字大通十丁目)[55]
  • 本斗郵便局 - 郵便・電信・為替業務を実施[56]1919年(大正8年)7月30日から電話交換業務開始[56]
  • 樺太庁観測所本斗支庁(字中通)[3][57]
    • 附属験潮所 - 樺太唯一の験潮所であった[3]
  • 本斗林務署[48]
  • 真岡区裁判所本斗出張所
民営企業
  • 本斗商事金融(字大通一丁目19番地) - 1927年(昭和2年)7月設立[58]
  • 本都無尽(字大通四丁目17番) - 1922年(大正11年)2月設立[58]
  • 樺太証券本斗出張所(字大通五丁目)
  • 本斗海陸運(字大通五丁目2番地) - 1920年(大正9年)2月設立[59]
  • 本斗倉庫(字大通五丁目13番地) - 1920年(大正9年)7月設立[60]
  • 本斗信用組合(字大通六丁目11番地) - 1922年(大正11年)3月設立[61]
  • 北海道拓殖銀行本斗支店(字大通十丁目)[62]
  • 本斗自動車(字中通四丁目)
  • 本斗運輸(字浜通三丁目)
  • 樺太農機商会(字浜通三丁目20番地) - 1929年(昭和4年)12月設立[63]
  • 本斗魚菜市場(字浜通四丁目)
  • 樺太電気本斗営業所(字山通三丁目20番地)[62]
組合組織
  • 本斗米穀雑貨商組合(字大通五丁目)
  • 本斗鉄工組合(字大通十二丁目)
  • 本斗購買販売組合(字北本斗17)[61]
  • 本斗飲食店組合(字中通二丁目)
  • 本斗料理店組合(字中通三丁目)
  • 本斗旅館業組合(字中通五丁目)
  • 本斗町漁業組合(字浜通四丁目22番)[64]
  • 本斗古物商組合(字浜通三丁目)
  • 本斗請負業組合(字山通二丁目)
  • 鳥舞沢農業組合(字鳥舞沢) - 1923年(大正12年)頃に創立[65]
公園
  • 本斗公園・公会堂[36]
宗教施設
  • 本斗神社(字大通) - 1915年(大正4年)8月創立[66][36]
  • 金毘羅神社(字北本斗) - 1919年(大正8年)5月1日創立[67]
  • 鳥舞神社(字鳥舞沢) - 1913年(大正2年)、小祠を字鳥舞沢4番地に建設、1921年(大正10年)7月15日に字鳥舞沢6番地に移設[28]。毎年7月15、16日を祭日としていた[28]
  • 曹洞宗福海寺(字南浜通一丁目) - 1910年(明治43年)6月24日創立。釈迦如来を本尊とする[67][68]
  • 真宗大谷派本照寺(字南浜通一丁目) - 1912年(大正元年)創立。阿弥陀如来を本尊とする[68]
  • 真宗本願寺派本誓寺(字南浜通一丁目) - 1915年(大正4年)創立。阿弥陀如来を本尊とする[68]
  • 浄土宗開教寺(字南浜通一丁目) - 1915年(大正4年)創立。阿弥陀如来を本尊とする[68]
  • 日蓮宗妙光寺(字南浜通番外地) - 1926年(大正15年)創立。大曼陀羅を本尊とする[68]

産業

本斗港
本斗港内の鰊枠船

本斗港

本斗港は1916年(大正5年)に起工し、1926年(昭和元年)に総工費250万円をもって竣工した港であり、樺太唯一の不凍港と呼ばれた[48]。北本斗漁港と連携を取り、本斗町の特産品として有名であった鱈などの輸出が活発に行われる商港としての性格を持つほか、樺太の港の中で北海道に一番近い港であったため、稚内港との連絡船が定期的に往来する交通の要所としての性格も併せ持っていた[9]。本斗港は岩礁からなる天然の防波堤を擁しており、また温暖な気候であるため、漁獲量は樺太内首位を誇っていた。内幌炭鉱など樺太西海岸南部の炭田開発の進行に伴い、本斗港は著しく発展し、倉庫の建設や埋立事業の実施がなされた[69][70]

交通

鉄道

道路

連絡船

  • 稚斗連絡船 - 1924年(大正13年)9月に北日本汽船株式会社により稚内港-本斗港間で営業開始[48]

人口

以下に1927年(昭和2年)末時点における本斗の居住人口・戸数を記載する[1]

大字 地区名 戸数 人口
大字本斗 市街地 1,020戸 2,591人 2,129人 4,720人
鳥舞沢 51戸 122人 101人 223人
1,071戸 2,713人 2,230人 4,943人

教育

  • 樺太庁立本斗水産学校 - 1929年(昭和4年)5月8日に公立本斗水産補習学校として本斗小学校内に開校し、1937年(昭和12年)に公立本斗水産学校、1940年(昭和15年)3月に樺太庁立本斗水産学校に改組された[75][72]
  • 本斗尋常小学校 - 1909年(明治42年)、私立ホントケシ尋常小学校が開校[76][77]。のちに本斗尋常小学校と改称[76][77]
  • 鳥舞沢尋常小学校 - 1920年(大正9年)5月、大字本斗字鳥舞沢22番地に私立学校として開校[28]。同年8月28日に公立学校として改組された[28]

脚注

参考文献

関連項目

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