朱漢賓
From Wikipedia, the free encyclopedia
若くして膂力にすぐれ、肉体と精神が壮健魁偉で、胆気が常人を超えていた。かれの父が朱全忠のために死んだことから、漢賓は朱全忠の幕下に選抜して置かれ、その養子となった。朱全忠が兗州と鄆州を攻めると、泰寧軍節度使の朱瑾は驍勇数百人を募集し、その頬に2羽の雁を入れ墨して、「雁子都」を立てた。朱全忠はこれを聞くと、また数百人を選抜して1軍を立て、「落雁都」と号した。漢賓は軍使に任じられて、当時に「朱落雁」と称された。のちに諸将とともに蔡州の崔洪を討って功績を挙げた。天復3年(903年)、右羽林軍統軍に任じられた[1][2]。
後梁が建てられると、漢賓は天威軍使・左羽林軍統軍・磁州刺史・滑州留後・宋州留後・亳州刺史・曹州刺史を歴任した[1][2]。貞明6年(920年)、宣威軍節度使に任じられた[3]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が後梁を滅ぼして洛陽に入ると、漢賓は入朝して後唐に帰順した。再び安州に帰された[1][2]。同光3年(925年)、左龍武軍統軍に任じられた[4]。荘宗が漢賓の邸に行幸して、漢賓の妻が酒食を進め、家楽を奏して楽しませたことがあった。同光4年(926年)1月、冀王朱友謙が入朝したとき、李嗣源が洛陽におり、朱友謙とは旧友であったことから、邸で酒宴を開いた。荘宗の弟たちがその酒宴に同席し、朱友謙は永王李存覇の上座にあった。酒宴がたけなわになると、漢賓は大きな盃を朱友謙にささげて皇弟の上座にあることをとがめた。元行欽が騒動が起こるのを恐れて、漢賓を止めた。数日のうちに、朱友謙は族滅された。趙在礼が魏州に拠って荘宗に叛くと、元行欽が軍を率いてその討伐のため進軍し、漢賓は知河南府事をつとめた[5][2]。
漢賓は明宗(李嗣源)の命により右衛上将軍となり、枢密使の安重誨と結託した[6][7]。天成4年(929年)、潞州節度使となった[8]。長興元年(930年)、検校太傅を加えられ[9]、晋州節度使に転じた[6]。長興2年(931年)、太子少保として致仕した[10]。清泰2年(935年)6月4日、死去した[11]。享年は64。天福元年(936年)、後晋の高祖が即位すると、漢賓は太子少傅の位を追贈された。諡は貞恵といった[12][7]。