朴慶植

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死没 1998年2月12日
出身校 東洋大学
パク・キョンシク
朴慶植
박경식
生誕 1922年12月7日
日本統治時代の朝鮮慶尚北道奉化郡
死没 1998年2月12日
出身校 東洋大学
職業 歴史研究者
著名な実績 在日朝鮮人史研究、史料収集
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朴慶植(パク・キョンシク、1922年12月7日 - 1998年2月12日)は、在日朝鮮人在野の歴史研究者である[1]。元朝鮮大学校教員、戦前の在日朝鮮人の歴史調査・研究で知られる[1][2]

1922年12月7日慶尚北道奉化郡面金峰里に生まれ、1929年3月、6歳のときに母と共に父の働く日本に渡った[2]。1943年9月、日本大学高等師範部地理歴史科(夜間)卒業。1949年に東洋大学文学部史学科を卒業し、1970年まで東京朝鮮中・高級学校および朝鮮大学校で教員を務めた[3][1]。1971年、総連の組織を離れ、その後、古書店を2年ほど経営しつつ在野で研究を続けた[4]。「季刊三千里」編集委員、アジア問題研究所代表などを務め、朝鮮近・現代史研究に従事した[3]

1998年2月、交通事故で死去[3][5]。没後、資料の大部分は滋賀県立大学に寄贈され、「朴慶植文庫」として所蔵されている[3]。資料群は段ボール箱およそ1300箱に及ぶ[3]

研究・業績

朝鮮学校で歴史教育に携わるかたわら研究を進め、1951年に古代史研究を『歴史評論』に発表した[2]。1955年には『世界対照・朝鮮歴史年表』、1957年には姜在彦との共著『朝鮮の歴史』を刊行し、1965年には『朝鮮人強制連行の記録』を刊行し、朝鮮人強制連行の問題を提起した[2]

戦前の在日朝鮮人の歴史を調査・研究した研究者として知られ、著書に『日本帝国主義の朝鮮支配』『天皇制国家と在日朝鮮人』などがある[1]。また、生涯にわたって在日朝鮮人史・朝鮮史関係資料を収集し、「在日同胞歴史資料館」の設立を構想した[3][5]。この構想は、のちの在日韓人歴史資料館開設の背景となった[5][6]

その他

朝鮮総聯主流派からの圧力

朝鮮総聯主流派を形成した先覚派[注釈 1]に対し、歴史研究を進めていた朴慶植、姜在彦、文学者の金達寿らは後覚派[注釈 2]と称され批判を受けることがあった。朝鮮総連主流派は朴慶植らの植民地期の被害についての歴史研究を圧迫し、著書の出版にも否定的だった。1971年9月、朝日新聞への投書[注釈 3] を問題視され、主流派から集団で暴行を受ける事態があった。そのため朝鮮総連の組織から離れ、在野の研究者として在日朝鮮人史研究に取り組んだ[7]

写真捏造疑惑

画像外部リンク
(※注意)グロテスクな画像です。表示する場合は下記のリンクから。
「土匪之為メ虐殺サレタル鮮人ノ幼兒」
「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」

『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)で使用した「5.30間島事件犠牲者(1930年)」とする幼児の死体と生首の写真について、「土匪之為メ惨殺サレタル鮮人ノ幼兒」「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」と題され戦前に販売されていた満洲の残酷写真からキャプションを切り取ったものであることが指摘されている[8][注釈 4]

主な著書

単著

  • 『世界対照・朝鮮歴史年表』三一書房、1955年
  • 『朝鮮人強制連行の記録』未来社、1965年
  • 『日本帝国主義の朝鮮支配』上・下、青木書店、1973年
  • 『朝鮮三・一独立運動』平凡社、1976年
  • 『天皇制国家と在日朝鮮人』社会評論社、1976年
  • 『在日朝鮮人運動史―8・15解放前』三一書房、1979年
  • 『在日朝鮮人 : 私の青春』三一書房、1981年
  • 『解放後在日朝鮮人運動史』三一書房、1989年
  • 『在日朝鮮人・強制連行・民族問題 : 古稀を記念して』三一書房、1992年

共著

  • 『朝鮮の歴史』姜在彦共著、三一書房、1957年

編著

  • 『在日朝鮮人関係資料集成』全5巻、三一書房、1975年-1976年
  • 『朝鮮問題資料叢書』全16巻、アジア問題研究所、1982年-1991年
  • 『在日朝鮮人関係資料集成 戦後編』全10巻、不二出版、2000年-2001年

執筆

脚注

参考文献

外部リンク

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