朴賢明
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1911年 |
| 没年月日 | 没年不明 |
| 身長 体重 |
179 cm 71 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1938年 |
| 初出場 | 1939年8月12日 |
| 最終出場 | 1939年8月16日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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| 朴賢明 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 박현명 |
| 発音: | パク ヒョンミョン |
| 日本語読み: | ぼく けんめい |
朴 賢明(ぼく けんめい、パク ヒョンミョン、1911年[1](1913年生まれ[2]とする資料もあり)- 没年不明)は、朝鮮平安南道鎮南浦出身[2]の元プロ野球選手(投手)。朝鮮人で初めて日本プロ野球 (NPB)に所属した選手として知られる[3]。三美スーパースターズ(後の現代ユニコーンズ。2007年解散)の初代監督を務めた朴賢植は弟に当たる。
朝鮮時代
平安南道の豪農の長男として生まれる。賢明を含めた4兄弟は、のち選手として朝鮮野球界に多大な貢献をしたと評価されるなど、野球熱が高い兄弟だった[2]。
進学先の平壌高等普通学校で4年生時の1930年4月に野球部を結成すると、野球経験こそ乏しかった朴だったが同校野球部のエースとして活躍した[3]。卒業後、クラブチームの平壌実業チームに加入した。1936年の第10回都市対抗野球大会朝鮮二次予選は当時の朝鮮を代表する野球選手である李栄敏(朝鮮殖産銀行)を宿将とする選抜チーム、全京城チームが優勝を飾った。平壌実業との決勝戦では、李は四番投手を務め完封勝利、対する朴は7回までを無失点で抑える好投を見せ、最終スコア8対0で敗退はしたが準優勝に貢献した[3]。1938年に朝鮮総督府逓信局へ移籍した。同年の第12回都市対抗野球大会には全京城に選出され出場、本選で準優勝した[4][5]。朝鮮遠征中だった明治大学硬式野球部と対戦し、7回までノーヒットに抑えた事や、同年8月にタイガースが朝鮮半島で親善試合を行った際に大阪タイガース関係者の目に止まったことが入団の理由だと言われている[2][4]。
タイガース時代
1938年10月[6]、関西大学出身の釣常雄、米子中の木下勇(共に投手)とともにタイガースへ入団、月給140円で遇された。朝鮮内は朝鮮人初の日本プロ野球 (NPB) 選手が誕生した快報に湧き、朴は1936年に引退した李栄敏と入替るように「朝鮮野球界の至宝」と称された[7]。タイガース主力野手の景浦將が、自分より実績のない釣や朴の方が高給であると思い違いをして、無気力出場をしたというエピソードもある[8]。1939年に8月12日の金鯱戦で初登板を果たすと(敗戦投手)、8月16日の南海戦でも先発登板(勝敗つかず)を果たした。しかし8月22日のライオン戦にて中継ぎとして登板予定だったが、肩の不調のため登板できず、そのまま一軍に出場することなく、同年限りで退団した[9]。若林忠志、西村幸生、御園生崇男など当時のチームの投手陣の層は厚く、打撃投手としての活動が主であり[6][1]、投げすぎにより肩を痛めたとされている[2]。
タイガース退団後
退団後は朝鮮に帰郷し、平壌にあったいすゞ自動車に入社。同社の野球部コーチを務めていたとされるが、日本の敗戦後の経歴なども含めて不明な点も多い[2][3]。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、故郷の平壌にいた朴はそのまま北朝鮮に連れ去られ、弟の朴賢植らとは離れ離れとなった[2]。
その後の動向は不明であるが、1989年に中国で行われた親善試合にて北朝鮮代表のコーチを務めていたことが確認されている[2]。
朴のタイガース時代に主将として活躍した松木謙治郎は自著・『タイガースの生いたち』で、東映フライヤーズ監督時代の1969年、大韓民国遠征にてオール韓国チームのコーチを務めた弟の朴賢植と会ったが「兄は平壌にいる」と再会できなかった無念を書いている[5][10]。