李厳 (後唐)

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李 厳(り げん、生年不詳 - 927年)は、五代十国時代官僚軍人。もとの名は譲坤。本貫幽州[1][2]

はじめ劉守光に仕えて、刺史となった。書物を渉猟し、弓射や乗馬にたくみであった。弁舌にすぐれ、芸能が多く、功名を自負していた。のちに後唐荘宗に仕えて、客省使となった。同光3年(925年)、前蜀への使節をつとめ、王衍と面会すると、荘宗の中原征服の功績を述べて、王衍に警告した。前蜀の枢密使の宋光嗣が李厳を曲宴に招き、最近の情勢を訊ねると、李厳は荘宗が後梁を滅ぼして以来、呉越荊南が服従していることを語った。また宋光嗣が契丹の強盛を述べると、李厳は契丹が後梁より強いことがあろうかと反問した。ときに王衍の失政で前蜀は動揺しており、李厳は帰国すると、かの地を征服するよう上奏した[3][4]

郭崇韜が前蜀征討の軍を起こすと、李厳は三川招撫使となり、先鋒使の康延孝とともに兵5000を率いて、閣道を先駆した。康延孝が漢州に到達すると、王衍が「李厳が先に来てくれれば、城ごと降伏したい」と信書を送ってきた。後唐の諸将は王衍が甘言で李厳を誘い出そうとしているものと疑ったが、李厳は喜んで成都府に駆けつけ、王衍の母と妻の身柄を預けられた。その日のうちに前蜀の使者の欧陽彬が魏王李継岌を迎え、前蜀は平定された。天成元年(926年)、明宗が即位すると、李厳は泗州防禦使に転じ、客省使を兼ねた。天成2年(927年)、安重誨が剣南両川を統制しようと図ると、李厳は剣南西川兵馬都監となった[5][6]。着任すると、孟知祥に殺害された[7][8]長興元年(930年)、太傅の位を追贈された[9]

脚注

伝記資料

参考文献

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