李従敏

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李 従敏(り じゅうびん、898年 - 951年)は、五代十国時代軍人は叔達[1][2]

後唐の明宗李嗣源の甥にあたる。質朴沈着で言葉数が少なく、騎射を得意とし、計策が多かった。はじめ荘宗に召見して、弓や馬を試され、衙内馬軍指揮使に任用されて、開封府洛陽の平定に従った。帳前都指揮使に任じられ、捧聖都将に転じた。李嗣源が成徳軍節度使となると、従敏は成徳軍馬歩軍都指揮使となった。天成元年(926年)、明宗が洛陽に入ると、従敏は皇城使に任じられ[1][2]袁州刺史を代行した。天成2年(929年)、陝州節度使として出向した[3]。天成3年(928年)、王都定州に拠って反乱を起こすと、王晏球が招討使に命じられて軍を率いて反乱を討ち、従敏は招討副使となり、滄州節度使を領知した[1][2]。天成4年(929年)、王都の乱が鎮圧されると、従敏は定州節度使に転じた[4]長興2年(931年[5]范延光に代わって成徳軍節度使となり、検校太尉を加えられ、涇王に封じられた[1][2]。長興4年(933年)、宋州節度使に任じられた。応順元年(934年)、潞王李従珂が鳳翔で起兵し、その子の李重吉を亳州防禦使とすると、従敏は閔帝李従厚の命を受けて李重吉を殺害した。清泰年間、従敏は洋王李従璋とともに罷免されて邸に帰らされ、末帝(李従珂)の待遇はきわめて悪かった[6]

天福元年(936年)、石敬瑭後晋を建国すると、従敏は莒国公に降封された[7]。天福2年(937年)、再び陝州節度使となった[8]。天福6年(941年)、昭義軍節度使に転じた[9]。天福8年(943年)、入朝して左龍武統軍となった[10]開運元年(944年)、再び昭義軍節度使に任じられた[11]。開運3年(946年)、河陽節度使に転じた[12]

天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が開封に入ると、従敏は西京留守となり、検校太師・同平章事を加えられた。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、従敏は侍中を加えられ、秦国公に改封された。1年あまりして、王守恩に代わって開封に帰還した[7][2]

後周広順元年(951年)春、従敏は病没した。享年は54。中書令の位を追贈された。は恭恵といった[7][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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