李懐忠

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李 懐忠(り かいちゅう、888年 - 953年)は、五代十国時代軍人は光孝。本貫太原府晋陽県[1]

太原府軍校の李海の子として生まれた。姿形が高大強健で、はじめ晋王李存勗に仕え、保衛軍に属した。夾城の戦いで、懐忠は率先して城壁を登り、功により保衛軍副兵馬使に任じられた。李存勗が山東を平定すると、懐忠は保衛軍使に累進した。後唐天成年間、陝州許州滄州の都指揮使を歴任し、辰州刺史を遥領した。清泰元年(934年)、河西の北方民族が侵入略奪してくると、懐忠は方渠に駐屯するよう命じられた[1]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、懐忠は石敬瑭と旧知だったことから、召し出されて禁兵をつかさどった。三度異動して護聖軍左廂都指揮使に任じられた[1]。天福4年(939年)、侍衛親軍馬軍都指揮使となり、忠正軍節度使を遥領し[2]検校太保を加えられた[1]。天福6年(941年)、同州節度使[3]・検校太傅となった[1]開運元年(944年)、左羽林軍統軍に任じられた[4]。開運2年(945年)、左武衛上将軍に転じた[5]

後周広順元年(951年)、懐忠は太子太傅として致仕した[6]。広順3年(953年)6月、死去した[7]。享年は66。太子太師の位を追贈された[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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