李承約
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剛健篤実な性格で、若くして武事を習った。弱冠にして盧龍軍節度使の劉仁恭に仕えて幽州牙校となり、山後八軍巡検使に転じた。天祐4年(907年)、劉仁恭が劉守光に捕らえられると、承約は部下2000人を率いて河東節度使の李克用に帰順した。匡覇軍指揮使・検校尚書右僕射に任じられ、貝州刺史を兼ねた。晋王李存勗に従って夾寨を攻め落とし、梁軍と臨清で戦って功績を挙げ、洺州刺史・汾州刺史を歴任した[1][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、承約は検校司空・磁州刺史に任じられた。その統治が公平実直であったことから、承約は潁州団練使に転じた。天成元年(926年)、静難軍節度使の毛璋が反乱を計画していたころ、承約は涇州節度副使に任じられ、明宗の密命を受けて毛璋の様子を探った。着任すると、毛璋を説得して交代を受け入れさせた。承約は検校太保を加えられ、黔州節度使に任じられた。数年のあいだ、巴州や邛州の少数民族は州境を侵犯しなかった。承約は農業や養蚕を勧奨し、学校を建てて教化を進めた[1][2]。天成4年(929年)、召還されて右驍衛上将軍となった[3]。長興2年(931年)[4]、左龍武軍統軍から特進・検校太傅を加えられ、昭義軍節度使をつとめた。推忠奉節翊戴功臣の号を賜った[1]。長興4年(933年)、再び左龍武軍統軍となった[5]。
後晋の天福2年(937年)、左驍衛上将軍に任じられ、開国公に封じられた。上表を重ねて引退を願い出た[1][6]。天福6年(941年)3月[7]、病没した。享年は75。太子太師の位を追贈された[1][6]。