毛璋
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後梁の戴思遠が横海軍節度使であったとき、毛璋は戴思遠に仕えて、その軍校となった。天祐12年(915年)に晋王李存勗が魏博を平定すると、戴思遠の勢力は逼塞し、翌年には滄州を棄てて逃亡した。毛璋は滄州に拠ったまま李存勗に帰順した。貝州刺史・遼州刺史を歴任した。毛璋は凶暴悖逆な性格で、大胆で知略があり、黄河で征戦に従軍して、しばしば戦功を挙げた[2][1]。
同光元年(923年)に後唐の荘宗(李存勗)が後梁を滅ぼすと、同光2年(924年)に毛璋は鎮国軍節度使に任じられた。同光3年(925年)、唐軍が前蜀を討つと、毛璋は行営右廂馬軍都指揮使をつとめた。前蜀を平定した功により[2][1]、静難軍節度使に任じられた[3]。同光4年(926年)、後唐で内戦が起こると、魏王李継岌が成都府から渭南県にいたり、その部下が逃げ散ったため、毛璋は李継岌の財産を略奪した[2][1]。天成元年(同年)、明宗が即位すると、同平章事を加えられた[4]。
毛璋は財産を蓄えて家を富ませ、西川の芸妓や楽師を私物化して驕り高ぶり、不法のことが多かった。昭義軍節度使に転じるよう朝廷に命じられたが、勅命に従いたくないために判官を叱責した。潞州に着任すると、西川の芸妓を山亭院に置いて、赭黄色の服を着て、飲酒をほしいままにし、王衍が西川にいたときの真似をした。天成3年(928年)、その醜態が朝廷に奏聞されて、毛璋は洛陽に召還されて右金吾衛上将軍となった。その年の秋、剣南東川節度使の董璋が「毛璋の子の毛廷贇が父の手紙を持って西川に赴いており、陰謀のあることが憂慮されます」と上奏した。そこで毛璋は毛廷贇や趙延祚とともに御史台の獄に下された。毛廷贇は実際には毛璋の甥であり、手紙を持っていた事実もなかったため、釈放されて私邸に帰された。天成4年(929年)、趙延祚が毛璋の数々の悪事を自白したため、毛璋は儒州に流された。7月5日、その道中に自殺を命じられた[5][6]。