千石の富者の息子だが、かなり貧しかった時代があり、申翼煕の直筆や屏風などを売って生計を立てたことがある[4]。
1958年の第4代総選挙では自由党による不正選挙、いわゆる「宝城郡庁睡眠薬入り鶏肉粥事件」で落選した。1959年9月12日の再選挙でも自由党側が再び不正を起こしたため、民主党候補の李は当日に選挙放棄を宣言した。なお、当選者の黄聖秀は友人の黄保翼の息子である[4]。
4・19革命直後は国民権剥奪審査委員を務め、参議員たちの不正行為を調査した。そのため、一部の参議員はお金をジープに積んで李の家を訪れたが、李は金品をもらうことに罪悪感があると言って全部返した[4]。
同じ旧派議員で親しい羅容均が張勉内閣に入閣した際、宝城への秋夕視察からソウルの家に戻るとすぐに羅に電話をかけて「長官の座がそんなに欲しがっていたのか」と諌めた[4]。