李漢
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元和7年(812年)、進士に及第し、節度使の補佐役を歴任した。長慶4年(824年)、左拾遺となった。敬宗が宮殿の建築を好んだことから、ペルシアの商人の李蘇沙が沈香を亭子の素材として献上した。李漢は上疏してこれを批判した。宝暦2年(826年)、敬宗に諫言してその意にさからい、山南西道節度従事として出された[1][2]。
文宗が即位すると、李漢は長安に召還されて屯田員外郎・史館修撰となった。李漢は韓愈の娘婿で、若い頃から韓愈を師として文章を作り、古代の学問に通じていた。『憲宗実録』の編纂に参与し、李徳裕に憎まれた。大和4年(830年)、兵部員外郎に転じた。李宗閔が宰相となると、李漢は知制誥に任用された。ほどなく駕部郎中に転じた[3][2]。
大和6年(832年)[4]、李漢は宇文鼎に代わって御史中丞となった。大和7年(833年)、礼部侍郎に転じた。大和8年(834年)、戸部侍郎に任じられた。大和9年(835年)4月、吏部侍郎に転じた。6月、李宗閔が罪を得て宰相から罷免されると、李漢も連座して汾州刺史として出された。李宗閔がさらに左遷されると、李漢もまた汾州司馬に降格された。数年して絳州長史に転じた。大中年間、召還されて宗正寺少卿となった。のちに死去した[5][2]。