李珙

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李 珙(り きょう、761年 - 824年)は、唐代軍人

山東の富裕な家に生まれた。代々儒家を輩出した家柄であったが、李珙は読書を好まず、弓射や騎馬を習い、武勇の才能を尊んだ。その身長は6尺あまりで、風采と体躯がたくましかった。沢潞節度使の李抱真のもとを訪れて面会すると、牙将に選抜された。しかし李珙は酒気を帯びて職務にあたっていたため、李抱真は李珙を罷免しようとした。都将の王虔休は李珙を任用しないのであれば、かれを殺して他人に得られないようにすべきだと李抱真に勧めた[1][2]

貞元10年(794年)、李抱真が死去し、王虔休が昭義軍節度留後となると、李珙は王虔休に仕え、昭義軍の大将となった。元和5年(810年)、吐突承璀盧従史を捕らえたが、烏重胤がその策謀に参与していた。李珙ははじめそのことを知らず、盧従史を救おうとした。烏重胤が朝廷の命を受けて盧従史を捕らえたものだと知ると、李珙は積極的に動かなくなった。烏重胤が河陽を領知すると、李珙を麾下に置いた。しかし朝廷は李珙が盧従史と仲が良かったことから、北辺の一校として出させた[1][2]

元和10年(815年)、淮西の呉元済の乱を討つにあたって、李珙は烏重胤の推挙により諸道行営都虞候となった。まもなく母が死去したため、李珙は辞職して喪に服した。喪が明けると、李珙は右武衛上将軍に任じられた。長慶4年(824年)8月、死去した。享年は64[1][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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