李琪

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李 琪(り き、871年 - 930年)は、末から五代十国時代にかけての文人官僚政治家は台秀[1][2]本貫河南府寿安県

経歴

13歳で詞・賦・詩・頌を作ることができ、王鐸の知遇を受けた。ある日、王鐸の宴会に招かれて「漢祖得三傑賦」の題で作るよう試みられ、一気に書き上げてみせた。王鐸にその大器を認められた。母が死去すると、李琪は山東地方を流寓し、数千巻の書物を読破した[3]

昭宗のとき、李琪は李谿父子に迎えられ、「調唖鐘」・「捧日」などの賦を作った。ますます名を知られるようになり、進士に及第した。天復元年(901年)、博学宏辞科に応じて、第四等で登第し、武功県尉に任じられた。転運巡官をつとめ、左拾遣・殿中侍御史を歴任した[3][4]

李琪は兄の李珽とともに朱全忠に知られ、後梁が建てられると、左補闕から翰林学士に任じられた。官を歴任して戸部侍郎・翰林学士承旨となった。李琪は朱全忠の四方の遠征のたびに従軍して、その文章をつかさどった。貞明龍徳年間に兵部侍郎・礼部侍郎・吏部侍郎を歴任した。末帝の命を受けて馮錫嘉・張充・郗殷象とともに『梁太祖実録』30巻を編纂した。御史中丞・尚書右丞に転じた[5][6]。貞明6年(920年)、中書侍郎・中書門下平章事(宰相)に抜擢された[7][8]。官吏の任命にあたって「摂」を「守」と書き改めたことを弾劾され、末帝の怒りを買い、宰相から罷免されて、太子少保となった[5][9]

同光元年(923年)、後唐荘宗開封府に入ると、李琪は太常寺卿・吏部尚書を歴任した。同光3年(925年)秋、洪水の被害が起こると、李琪は上疏して前代の故事を引きながら国家経営の要点を提言した[10][9]。同光4年(926年)、国計使をつとめた[11]

天成元年(同年)、明宗が即位すると、任圜が李琪を宰相とするよう求めたが、孔循鄭珏に退けられた。李琪は御史大夫となった。ときに安重誨が台門の前で殿直の馬延を勝手に殺した。李琪は安重誨を恐れて弾劾せず、老齢を理由に引退を願い出た[12][13]。天成2年(927年)、尚書右僕射に任じられた[14]。天成3年(928年)、太子少傅となった[15]天成4年(929年)、明宗が開封府から洛陽に帰ると、李琪は東都留守として、偃師県に赴いて明宗を迎えた。李琪の上奏の中に「契丹の凶党を敗り、真定の逆賊を破る」との言があったため、明宗は「契丹は凶党であるが、真定は逆賊ではない(逆賊は定州王都)」といって、李琪に1月の罰俸を科した[16][12][17]

長興元年(930年)4月、李琪は酒泉郡開国侯に封じられ、太子太傅として致仕した[12][17]。10月2日、洛陽の福善里の邸で死去した[18][12]。享年は60。著書に『金門集』10巻があった[12][17]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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