李皇后 (劉知遠)

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李皇后(りこうごう、生年不詳 - 954年)は、五代十国時代後漢の高祖劉知遠皇后本貫太原府晋陽県[1][2]

劉知遠が身分の低かったとき、晋陽県の別荘で馬を飼っていたが、夜間に李家に侵入して、李氏の身柄を奪い取った。劉知遠が河東節度使となると、李氏は魏国夫人に封じられた。開運4年(947年)、劉知遠が太原府で起兵したとき、軍士に分賜をおこなおうとしたが、官金が不足していたため、市井から徴発しようとした。李氏はこれを聞いて諫め、後宮に蓄積した財産を拠出するよう勧めた。劉知遠はこれを聞き入れた[1][2]

天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、李氏は皇后に立てられた。乾祐元年(948年)、子の隠帝劉承祐が即位すると、李皇后は皇太后に立てられた。隠帝は年少で、宮中で郭允明後賛李業らと戯れていたため、李太后はたびたび隠帝を叱責した。乾祐3年(950年)、李業らが宰相の楊邠らの殺害を計画し、李太后に言上すると、李太后はこれに反対したが、止められなかった[1][3]

郭威開封府に入ると、軍政や国政の重大事については、みな李太后の教令を発するよう求めて行われた。郭威は群臣を率いて、李太后に臨朝聴政をおこなうよう求めた。広順元年(951年)、後周の太祖郭威が即位すると、李太后は徳聖皇太后の尊号を受け、太平宮に居住した。顕徳元年(954年)春、死去した[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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