李若初

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李 若初(り じゃくしょ、生年不詳 - 799年)は、唐代官僚本貫趙州賛皇県[1]

貞観年間の并州長史・工部侍郎の李弘節の曾孫にあたる。祖父の李道謙は太府寺卿となった。若初は幼くして父の李瑱を失い、貧苦の中で成長した。はじめ転運使の劉晏の下で地位の低い暇仕事をしていた。劉晏の判官の包佶がかれの勤勉で才幹あるのを重んじて、その娘をかれにめあわせた。若初は太康県令となった。陳州刺史李芃が着任すると、若初は計策を献じて、陳州で収奪した剰余銭や物品を請いうけ、権貴と交際して結びつかせたので、李芃はかれを厚遇した[1]建中2年(781年[2]、李芃が河陽三城使に転出すると、若初はその下で従事となり、軍中の事務の多くが委ねられた。若初は官歴を重ねて検校郎中・兼御史中丞・懐州刺史に任じられた。虢州刺史に転じたが、公務中の事件で罪に問われ、観察使の弾劾を受けて、免官されて帰郷した。長らくを経て、衢州刺史として出向した[1]貞元11年(795年)2月[3]福州刺史・兼御史中丞・福建都団練観察等使となった。貞元13年(797年)3月、越州刺史[4]・兼御史中丞・浙江東道都団練観察等使に転じた。貞元14年(798年)9月[5]王緯に代わって潤州刺史・兼御史大夫・浙江西道都団練観察・諸道塩鉄転運使となった。貞元15年(799年)1月29日[6]、病没した。礼部尚書の位を追贈された[1][7]

脚注

伝記資料

参考文献

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