若くして儒者となり、節操を保っていた。節度使の従事を歴任し、入朝して庫部員外郎に累進した。天福元年(936年)、後晋の高祖石敬瑭が即位し、皇子石重乂が洛陽を守り治めることとなると、李遐はその有能を買われて、西都留守判官に任じられた。石重乂を補佐して、廉潔勤勉につとめ、洛陽の左蔵庫の監督を委ねられた。天福2年(937年)、張従賓が反乱を起こすと、李遐は絹織物を贈られて反乱に加担するよう求められたが、「詔書を奉じずに、命を受けることはできない」といって拒絶した。張従賓の部下に殺害された。石敬瑭にその死を惜しまれ、右諫議大夫の位を追贈された。その母の田氏は、京兆郡太君に封じられた。